環境の保全・保護と社会的正義とを結びつける概念。いわば環境面での公正・公平を意味する。元来は、1980年代のアメリカにおいて、環境レイシズム(environmental racism しばしば「環境人種差別」と訳される)を批判する社会運動のなかで提起された理念であった。環境レイシズムとは、アフリカ系・ヒスパニック系アメリカ人らの居住地近くに有害廃棄物処理場が多く作られたり、アメリカ先住民の保留地で放射性物質の開発が集中的になされてきた事実に見られるように、環境汚染や環境破壊の被害が「人種差別」の結果として不平等なかたちでもたらされる事態、およびそれを是認する考え方を指す。この環境レイシズムを告発し、環境に関する不正義を克服しようとする運動が「環境正義運動」であった。(なお、水俣病をはじめとする深刻な公害を経験してきた日本では、1960年代から環境正義をめぐる問題が実質的に指摘されてきたともいわれる。)
その後、環境正義を求める運動は徐々に広がりを見せ、その概念もしだいに拡張されてきた。たとえば、問題となる不正義について、一方では、環境汚染・環境破壊などの被害が不平等に引き起こされる事態だけでなく、資源の消費のあり方に関する不平等や、環境をめぐる情報・意思決定に関わる不公平なども議論の対象となる。また他方では、一国内における「人種差別」のみならず、富裕層と貧困層との間の格差や、性・年齢などに関わる差別、南北問題をはじめとするグローバルな不平等、さらには(世代間倫理として問われるような)現在世代と未来世代との間の、あるいは人間と自然界の動植物との間の不平等・不公平なども問題とされる。こうした環境正義の考え方は、人間中心主義と人間非中心主義(ないし自然中心主義)との間の論争を一つの柱としてきた環境倫理学においてもしだいに顧慮されるようになり、現在では環境倫理を論じるうえできわめて重要な観点の一つとなっている。