日本人にとって初詣とお盆は欠かせない年中行事である。いずれも宗教意識の調査で高い実行率を示しているところからもわかるように、両者は日本人の根本的な宗教性を形成しているばかりでなく、年中行事を核とした時間感覚や季節感などで、循環する自然や生活様式を意識させている。初詣には明治神宮を筆頭にして、成田不動、川崎大師、平安神宮、住吉大社など、毎年数百万の人が訪れる著名な神社や寺院の他に、地元の鎮守や寺にも訪れる。神仏習合(混淆)である。神も仏も選ぶことなく、漠然と御利益のありそうな神仏にお参りしているといった方がいい。多くの参詣者は自分や家族の健康・幸福など、きわめて世俗的な自分の願望をそこはかとなく祈願しているのであり、おそらく来世の救いを求めたり、罪の許しを祈ったりすることはほとんどないだろう。かつて正月は、歳神を迎えるために大晦日(おおみそか)から家の中で身を慎み、静かに篭もっていたものであったが、今日では若者を中心に年越しがイベント化して、初詣をはじめ大勢の人々の中で喧騒のうちに賑やかに元旦を迎えるようになっている。正月に訪れる歳神は、もともと先祖の霊だったといわれる。日本人は冬と夏に先祖の霊を祀(まつ)っていた。それがいつしか、夏のお盆だけになってしまった。お盆には、今でも故郷を離れている多くの人々が実家に帰り、先祖のお墓参りをする。その様は「民族の大移動」といわれるほどだが、現行のお盆は盂蘭盆会(うらぼんえ)と施餓鬼会(せがきえ)に由来し、インドを経て中国から伝わったものである。盂蘭盆会は亡者の苦しみを救うために仏と僧に食物を捧げて供養する行事で、施餓鬼会は餓鬼道に堕ちて飢餓に苦しんでいる餓鬼に食物を施して供養する法会である。室町時代のころ、両者が結びついてお盆が生まれたが、日本では先祖の霊とともに無縁仏を祀るところに特徴がある。先祖の霊は家を見守ってもらうために丁重に迎えて送り出すが、祀り手のない無縁仏は災い(祟り)を及ぼしかねないので、供養を施して帰ってもらう。これが、日本の民俗宗教の根幹をなす祖霊信仰と怨霊信仰である。菅原道真が北野天神として祀られているように、祟りをなす怨霊は、ただしりぞけられるばかりでなく、霊力が強いために神として祀られることも多い。共同体に災厄をもたらす邪神を取り込んで、幸福をもたらす善神へと祀り上げる。このような神の祭りが民間には多くみられ、マイナスの力をプラスに転換させて、共同体の秩序を活性化させているのである。