1587年(天正15)、天下人豊臣秀吉(とよとみひでよし 1537?~98)は伴天連追放令(ばてれんついほうれい)を出し、宣教師の国外退去を命じた。さらに97年(慶長2)には、長崎で信者26人を処刑。日本初の殉教者である。彼らは1862年(文久2)、ローマ教皇庁(→「カトリック」)によって聖人に列せられた。これを日本二十六聖人と呼ぶ。その後天下を握った徳川家康(とくがわいえやす 1543~1616)は、当初キリスト教を黙認。13年(慶長18)9月には仙台藩主伊達政宗(だてまさむね 1567~1636)が、支倉常長(はせくらつねなが 1571~1622)を使者として、慶長遣欧使節を派遣している。ところが、相前後して幕府は方針を転換。12年(慶長17)に直轄地、翌13年には全国にわたるキリシタン禁教令を出し、キリシタン弾圧へと踏み切っていく。14年(慶長19)にはキリシタン大名の高山右近などが、フィリピンのマニラに追放された。その後も19年(元和5)に京都で52人、22年(元和8)に長崎で55人、23年(元和9)には江戸でも55人が殉教するなど、多くの犠牲者を出したが、37年(寛永14)、島原・天草の圧政に苦しんだ農民や武士たちが、キリシタンとともに一揆を起こして武装蜂起した。益田四郎時貞(天草四郎)を大将とする、島原の乱(島原・天草一揆)である。厳しい禁教下にあって、キリシタンは殉教こそがアニマ(霊魂)の救い、天国に至る栄光の道だとして、進んで死地へと赴くことを本望とした。翌年乱を鎮圧した江戸幕府は、踏絵や密告などを通じてキリシタンを徹底して取り締まる宗門改めを行うとともに、特定の仏教寺院(檀那寺)に属させる檀家制度(寺檀制度)を設けた。これは寺院が仏教徒であることを証明する寺請(てらうけ)証文を出したことから、寺請制度とも呼ばれる。この檀家制度の下で、死者供養・先祖祭祀が普及し、いわゆる葬式仏教が生み出されていった。殉教を免れたキリシタンたちの多くは、激しい拷問により転ぶ(信仰を捨てる)ことになるが、中には棄教を偽り隠れて信仰を続ける隠れキリシタンになる者もいた。