自由民主党(自民党)の党首である総裁を党所属国会議員や都道府県代表または党員・党友による投票で決めるための規則。1955年の結党時から総裁公選規程を設け所属国会議員と各都道府県支部連合会の代議員の選挙によることとした。77年4月の改正で「予備選挙」が導入され、78年と82年に実施された。89年9月改正では予備選挙と本選挙の一本化と都道府県の「持ち票制」が導入され91年総裁選で実施された。95年6月の改定では党員の1万票を国会議員1票に換算して合計する方式となり、この規程に基づく総裁選挙は95年9月と99年9月の2回実施された。98年7月の橋本龍太郎退陣に伴う総裁選は国会議員と都道府県代表各1人による投票だった。2001年4月の森喜朗退陣時の総裁選は国会議員と都道府県代表各3人による投票で行われ、ほとんどの都道府県では党員による予備選挙を実施した。党政治制度改革本部(本部長原田昇左右)は01年12月党総裁公選規程の改正案を小泉純一郎総裁に提出。それによると(1)総裁任期は3年(改正前2年)で2期まで、(2)推薦要件は国会議員20人(同30人)、(3)党員投票は300票に換算、県連ごとに開票し持ち票をドント式で配分、(4)任期途中のリコール制を導入、などが盛り込まれた。この規程に基づく総裁選は03年9月と06年9月実施された。安倍晋三総裁の辞任を受けた07年9月の総裁選と、福田康夫総裁の辞任を受けた08年9月の総裁選は、いずれも国会議員と地方代表(都道府県連各3人)による投票で実施され、多くの県連で予備選が行われた。09年9月総裁選では本来の公選規程に基づいて実施されたが、総選挙敗北を受けて国会議員票(199)が大幅に減ったため、地方票(300)のウエートが相対的に高まった。12年総裁選は国会議員票(200)と地方票(300)で争われた。第1回投票では石破茂が1位となったが、過半数に達せず、国会議員のみによる決選投票となり、安倍晋三が逆転勝利した。決選投票は1956年、60年、72年の3回あるが、逆転したのは56年のいわゆる「2、3位連合」による石橋湛山総裁誕生のときだけだった。12年総裁選の決選投票が国会議員だけで行われたことから地方軽視との批判を招き、13年1月党大会で総裁公選規程の改正を決め、総裁選が決選投票となった場合には各都道府県連にも1票ずつ配分することになった。各都道府県の票は決選に残った候補のうち上位者に与えられる。さらに7月参議院選挙で国会議員数が大幅に増え、議員票の占める割合が増えたことで、あらためて地方票の強化を求める声が強まったため、14年1月党大会で、現行300の地方票を所属国会議員数と同数(同年1月現在407)にする総裁公選規程改正を行った。都道府県連にあらかじめ基礎票を割り振り、残りを党員・党友数に応じて比例配分し、都道府県連ごとに開票してドント式で配分する仕組みは廃止し、地方票は全国で一括集計しドント式で候補者に比例配分することになった。