1955年11月15日、いわゆる「保守合同」によって自由党と日本民主党が合同して創立された保守政党。通称は自民党。実際には保守主義から中道路線、進歩主義までを含む。人材的には官僚出身者から地方名望家、産業界出身者まで各層の指導者を網羅することによって戦後のほとんどの期間、政権を担う政権政党として存続してきた。その一方、党内には派閥が生まれ、「派閥連合政党」的な性格も併せ持っている。過去には官僚派と党人派、タカ派とハト派、主流派と反主流派の抗争がしばしば起きた。しかし派閥実力者による党首交代は疑似政権交代の効果を生み、自民党に対する国民の批判をそらせると同時に、党の再生・活性化をもたらし長期政権・一党支配の永続に役立ったとの見方もできる。93年6月、政治改革の是非をめぐる党内対立は大量の離党者を生み、直後の総選挙で過半数割れをしたため、「非自民」の細川政権の成立を許した。94年6月に日本社会党委員長の村山富市を担いで政権に復帰するまでの間、初めて政権の座を離れた。2001年4月総裁選では小泉純一郎が橋本龍太郎を大差で破って第20代総裁に選出された(→「小泉政権(小泉純一郎政権)」)。05年9月総選挙では296議席という地すべり的勝利を得て、同年11月の結党50年記念党大会で新憲法草案を採択した。06年9月の総裁選では安倍晋三が麻生太郎、谷垣禎一に圧勝して第21代総裁に就任した(→「安倍政権(安倍晋三政権)」)。07年参議院選挙では改選64議席に対して37議席しか獲得できず惨敗。安倍はいったんは続投を表明したが、8月27日の内閣改造後、9月10日に臨時国会を召集、所信表明演説を行ったところで同月12日、辞任を表明した。これを受けた総裁選では福田康夫が麻生太郎を大差で破って第22代総裁に就任した(→「福田政権(福田康夫政権)」)。その福田もまた08年9月1日、突然、辞任を表明した。総裁選は過去最多に並ぶ5人が立候補して争われた。麻生太郎が圧勝し、第23代総裁に就いた(→「麻生政権(麻生太郎政権)」)。09年8月総選挙で119議席しか得られず歴史的惨敗を喫した。結党以来、政権を失ったのは2度目。後継の第24代総裁には谷垣禎一が選出された。10年1月には新たな党綱領を策定。同年7月参議院選挙では51議席を獲得し、党勢回復の足がかりをつかんだ。12年7月、新たな憲法改正案を発表。同年9月末の谷垣総裁の任期切れに伴う総裁選で、谷垣は出馬辞退に追い込まれた。第1回投票では2位だった安倍晋三が決選投票で石破茂を逆転で破り、第25代総裁に選出された。12年12月総選挙で294議席と大勝し政権復帰を果たした(→「第2次安倍政権(安倍晋三政権)」)。