2008年9月24日に成立。衆議院では与党が多数を持ちながら、参議院では野党が多数を制する「ねじれ国会」で、しかも、野党民主党などが与党に対して強い対決姿勢をとるために国会運営が円滑に行かず、そのためにリーダーシップが振るえず内閣支持率が急速に低下することに嫌気して、福田康夫首相は08年9月1日に退陣を表明した。これを受けて実施された自民党の総裁選挙には、麻生太郎、石原伸晃、石破茂、小池百合子、そして、与謝野馨の5人が立候補した。9月22日の選挙の結果、地方票の95%、国会議員の57%を獲得した麻生太郎が当選した。国会での指名選挙では、参議院では民主党の小沢一郎党首が指名されたが、憲法の規定に従って、衆議院で指名された麻生が総理大臣となった。麻生首相はただちに衆議院を解散する意向であったが、自民党が実施した世論調査の結果は必ずしも自民党の勝利を保障しなかったばかりか、折から、アメリカのサブプライム問題で始まった世界的な金融不安もあり、麻生首相は解散を断念して、景気回復を最優先する政策を志向した。公明党が掲げた2兆円の定額給付金の給付もその一環であるが、そのかわり3年後には消費税を引き上げることで財政上の節度を維持することも主張した。しかし、定額給付金は国民の間で評判がよくないうえに、所得制限を主張しながら、それを打ち消したり、消費税引き上げについても、それを法律に明記することに強く反対する自民党の一部に妥協するなど、その発言が定まらないばかりか、さらに、「未曾有」を「みぞゆう」などと漢字を読み間違えたり、「医師には社会常識が欠落している」などの失言もあり、当初高かった内閣支持率も大幅に低下してしまった。麻生首相は、1940年9月20日生まれ。父は麻生太賀吉元代議士、母方の祖父は吉田茂という名門の生まれである。79年に衆議院福岡2区から出馬して初当選した。96年11月第2期橋本龍太郎内閣で経済企画庁長官で初入閣を果たした。以後、小泉純一郎内閣で政務調査会長、総務大臣、外務大臣を歴任した。小泉後継を選ぶ総裁選挙に立候補したが、安倍晋三に敗れた。安倍内閣では外務大臣、幹事長を務めた。安倍総理の辞任を受けて総裁選挙に再度立候補し、福田康夫に敗れたが、第二期福田内閣でも幹事長を務めた。
2009年3月には、民主党の小沢一郎代表の公設秘書が西松建設からの巨額献金事件で逮捕されたことを契機に、それまで政党支持率において圧倒的に優位に立っていた民主党に対する国民の支持にかげりが見えてきたが、麻生首相はそのタイミングで衆議院の解散を躊躇(ちゅうちょ)したために、自民党勝利の機会を失ってしまった。結局、小沢に代わり鳩山由紀夫が民主党の代表に選ばれると、民主党の支持率は再び上昇に転じ、麻生内閣の支持率は相変わらず低迷するままに、麻生首相は任期切れ近くの7月21日に衆議院を解散し、8月30日を総選挙の日とした。民主党は総選挙で「政権交代」を最大の争点に掲げ、自民党もそれにつられる形で、民主党の政権担当能力を問う選挙となった。しかし、小泉政権以後、1年ごとに政権が交代する自民党には政権担当能力がなくなっていると多くの国民は考えて、総選挙では民主党に勝利を与えた。比例区において民主党の得票率は42%、自民党は27%であった。総選挙後の特別国会が開かれた9月16日に麻生内閣は総辞職し、新たに民主党を中心とした連立内閣である鳩山内閣が成立した。