2009年9月16日に成立。同年8月30日に実施された総選挙で、民主党は「国民の生活が第一」とし、「政権交代」を国民に訴え戦った。その結果、民主党が全議席の64%の308議席を獲得して、第一党の地位を獲得した。民主党は衆議院では過半数を獲得したものの、参議院の議席数は過半数に満たないために、社民党と国民新党の政権への参加を呼びかけ、民主党と社民党と国民新党の三党の連立政権として鳩山由紀夫内閣が成立した。鳩山内閣がまず行ったのは、「政治主導」による政策決定の政府への一元化であった。そのために民主党は政策を審議・決定する政策調査会を廃止した。政策は内閣で政治家が立案し、審議し、決定することとなった。鳩山内閣は、これまで閣議にあげる議題を決定してきた事務次官等会議を廃止したほか、民主党議員による議員立法を原則として禁止した。
各府省の政策は、府省の大臣、副大臣、政務官の民主党のいわゆる政務三役が立案し、審議し、決定することとした。政務三役会議には大体の府省では官僚が参加することを許されず、官僚は政務三役が必要とする資料やアイデアを届けることが主な任務となった。官僚が記者会見をすることも、政務三役以外の政治家や圧力団体とも接触することが原則として禁止された。代わって、政務三役が記者会見を行い、利益団体からの陳情は与党民主党を経由して、政務三役に届けるという仕組みが創設された。また、民主党をはじめとして、与党から各府省への意見の陳述は、副大臣が主宰する各省の政策会議においてなされることとされた。
府省の間の意見の調整は、それらにまたがる事項に関する閣僚委員会が設けられた。鳩山内閣において最初に作られた閣僚委員会は、予算編成に関する閣僚委員会と、環境に関する閣僚委員会である。閣僚委員会のうちで特殊な存在は基本政策閣僚委員会である。基本政策閣僚委員会は、連立を組む政党の党首の意見調整の場である。民主党からは鳩山首相(代表)らが、社民党からは福島瑞穂特命相(党首)、そして、国民新党から亀井静香特命相(党首)が出席していた。社民党などは当初、内閣の外に三党の意見の調整の場を設けることを主張したが、民主党が強く政策の内閣一元化を唱えたために、閣僚委員会という異例な形で連立与党の調整が行われることとなった。なお、連立与党と内閣との間の調整は、そのほかに、各党の幹事長を含めた政府連立与党首脳会議で、また、民主党だけの政府・民主党首脳会議が開催された。
鳩山首相は普天間基地の代替地を、「県外、できれば国外」と主張していたが、結局、自民党政権と同じ辺野古にすることをアメリカと合意したことが、沖縄県民の失望と怒りを招き、あわせて首相の外交力や政治資金の晴れない疑惑に対して国民が疑問を抱きはじめ、支持率が低下。10年6月2日に辞意を表明し、同4日に鳩山内閣は総辞職した。