1999年10月、ムシャラフ将軍がナワーズ・シャリフ文民政権をクーデターによって倒して樹立し、2008年8月に退陣した政権。クーデター後ムシャラフ将軍は01年6月、陸軍参謀長のまま大統領に就任、02年4月には大統領信任国民投票を実施した後、同8月には憲法を改正して大統領権限を大幅に強化した。02年10月に国民議会選挙が実施され、大統領支持のパキスタン・ムスリム連盟カイデ・アザム派(PML-Q)が第1党となり、11月に同党を主体とする連立内閣が樹立された。04年に入ると、ムシャラフは陸軍参謀長を辞任するとの公約を破棄して、次期総選挙実施後の07年12月まで陸軍参謀長にとどまるとした。01年9月のアメリカ同時多発テロ以降、ムシャラフ政権は「テロとの戦い」に協力し、タリバン勢力支援政策を転換してアメリカの支持を受けていた。またインドとは、カシミールをめぐる関係の改善をはかった(→「インド・パキスタン関係」)。07年10月の大統領選挙でムシャラフは陸軍参謀長兼職のまま再選を果たしたものの、最高裁との対立(→「最高裁長官罷免問題」)から11月3日には非常事態を宣言し、憲法を停止した。11月28日、ムシャラフは陸軍参謀長を退き、翌日大統領に就任した。非常事態は、12月15日解除されたが、総選挙直前のパキスタン人民党(PPP)総裁ベナジル・ブット元首相暗殺(→「ブット元首相暗殺」)事件は、ムシャラフ政権への批判を一挙に噴出させた。約1カ月延期して08年2月18日に実施された総選挙では、与党が惨敗し、パキスタン人民党など野党がおおきく躍進した。野党による大統領弾劾の動きを前に、同年8月18日ムシャラフは辞任、約9年間のムシャラフ政権は幕を閉じた。ムシャラフはイギリスで亡命状態にあるが、ブット暗殺事件に関する出廷命令に応じないため資産凍結措置を受けている。