一様な温度の気体がひとりでに暖かい部分と冷たい部分に分かれることはありえない。熱力学第二法則(second law of thermodynamics エントロピー増大則)に違反するからである(→「不可逆過程」)。しかし、電磁気学を確立したことで知られるJ.C.マクスウェルが、そのもう一つの業績である気体運動論の中で論じたところでは、一見この熱力学法則に反するような現象が可能である。すなわち、気体を閉じ込めた箱を二つに仕切り、そこに小さな扉をあけて大きな速度をもつ分子だけを一方に通すことができるような仮想的生き物、すなわち「マクスウェルの魔物」を考えるのである。これによって気体の一方は熱く他方は冷たくなり、エントロピーは減少したかに見える。しかし、実際には、魔物を含めた系全体を考えれば、エントロピーは増大していることが注意深い考察からわかる。しかるに、生命現象の分子機構が近年になって次々に明らかになると、マクスウェルの魔物に似た働きをもつ分子レベルの機械(分子モーター molecular motor)が現実に存在し、これが熱ゆらぎ、すなわちミクロな乱雑運動を効率よく組織化して方向性をもった仕事に変換し、生命にとって重要な機能を果たしていることがわかってきた。これは、通常の熱機関の効率が熱雑音によって低下するのと著しく違っている。熱雑音 (thermal noise)のようなランダムな運動エネルギーを用いて方向性をもった運動を生じさせる機械的な仕組みはラチェット (ratchet)と呼ばれ、その研究が最近活発に行われている。ラチェットを含めこの方面における統計力学 (statistical mechanics →「ミクロな法則」)の研究は大きな可能性をもっており、物理学と生命科学の交錯する学問領域として注目を集めつつある。