しばしば経済と訳されるこの語は、古代ギリシャでは元来、家政を意味した。ただし西洋の思想史のうちでは、エコノミーの概念はいずれの訳語にも収まりえない広がりをもっている。概括的にいえば、エコノミーとは、生が営まれる「家」内部のものごと、あるいは時間のうちにある有限なものごとに対する秩序だった統治を、またそれらのものごとを無駄なく巧妙に配置する調和した秩序そのものを、さらにはそうした統治や秩序のありようを探る学の形態を、意味するものといえる。
古代ギリシャで「オイコノミア(エコノミー)」は、まず広義の「家(オイコス)」を秩序にかなった形で管理・統治することを意味したが、ストア派においては、「宇宙(コスモス)」の整合的な秩序、また秩序だったその統治を、弁論術・修辞学では、題材の秩序づけられた配置を意味するものとなり、さらに初期のキリスト教思想のうちで、神の摂理ないしは経綸を意味するものとして、歴史的世界の救済の論理を担うことになった。
その後、オイコノミアという言葉は、ラテン語のdispensatio、dispositio等に置き換えられてひとまず神学的文脈からは姿を消すが、ルネサンスの古典復興を通じて復権する。そして16世紀末以降、エコノミーの概念は、神による世界や自然の統治、とりわけ賛嘆すべきその巧妙な「秩序」を示すものとして多用され、とくに「自然のエコノミー」の概念は、自然史研究や形而上学・道徳哲学のなかで重要な意味を担った。また、生を維持する身体の組成・生理等を意味する「アニマル・エコノミー」、理性的存在が従うべき道徳的秩序としての「モラル・エコノミー」等の概念も広く用いられた。
現在の経済学に連なる学の形態は18世紀後半以降「ポリティカル・エコノミー」と呼ばれたが、その成立にも自然のエコノミーの概念が深くかかわっていた。ポリティカル・エコノミーは、一方で、「大きな家」としての政治体の「統治」を意味する概念であったが、ケネー(Franois Quesnay 1694~1774)、スミス(Adam Smith 1723~90)らの思考を経て、いわば自然のエコノミーの一つの系として、政治体の富に関する巧妙な「秩序」や組成をも意味するものとなり、とりわけそれら(の諸法則)を探究する学(後の表現では「エコノミクス」)を指すようになった。
エコノミーの概念は、こうして次第に経済学の対象領域を指すようになるが、その後も多様な文脈で考察の対象となってきた。「思考のエコノミー」(マッハ)、「一般エコノミー」(バタイユ)、「権力のエコノミー」(フーコー)、「リビドー・エコノミー」(リオタール)等、着目すべき概念は枚挙に暇がない。また「エコロジー」は元来「オイコノミア」からの造語であったが、近年エコロジー思想の一部で自然のエコノミーの概念が積極的に用いられている点も注目される。