同一性と差異、つまり、何かを「同じ」とするか「違う」とするか、にまつわる問題は、哲学において長く問われ続けてきた。例えば、プラトン(Platon 紀元前428/427~前348/347)が示したイデア(idea 希)という概念は、同一性と差異に関する客観的な基準を設定する役割を担っていたといえる。人々が「犬」を見て同じように「犬」と判断できるのは、「犬」のイデアが共有されているからとされるのである。
だが、イデアのような概念に訴えて同一性を説明することには、様々な不具合がある。例えば、異なる言語体系に属する人同士は、何らかの「もの」をそのように認識する段階で、判断を異にする。文化人類学の調査が進み、異なる文化において同一性の判断が乖離(かいり)する例が多数報告されると、同一性と差異の問題は、ふたたび顕在化した。
ソシュール(Ferdinand de Saussure 1857~1913)の構造主義的言語学は、認識における「もの」の同定が言語に依存することを示した。人は「犬」と名付けられる「もの」を認識した後に「犬」と名付けるのではなく、「犬」という語を枠組みとして、その「もの」を「犬」として見る。「犬」という認識の成立に「犬」という語が先立つのであれば、「犬」という語の内実は、言語体系内部における他の語との関係によってのみ決定されることになる。つまり、その「もの」が「犬」であるのは、それが「人間」ではなく、「猫」でもなく、「山犬」でもなく、…と他の語の適用可能性をすべて否定することで成立するのである。ソシュールはこうして、「もの」の同一性を、同一の言語体系内での他の語との「差異」によって決まるものとした。
言語が人々の認識を決定するとすれば、人々の「もの」の見方は言語構造にとらわれることになるのだろうか。「ポスト構造主義」とくくられる思想家たちが問題としたのは、構造自体が変化する可能性であった。ドゥルーズ(Gilles Deleuze 1925~95)は、「差異(diffrence 仏)を含んだ反復(rptition 仏)」という概念によって、不動の言語体系の存在を前提にした同一性の反復とは異なる仕方で、物事の「意味」が規定される論理を示した。またデリダ(Jacques Derrida 1930~2004)は、「差延(diffrance 仏)」という概念で同一性によらず差異が産出される構造を示した。