存在するのは「自己(ipse)」だけであり、「他我(alter ego 羅)」をはじめとするその他の存在者は存在しない、あるいはそれよりも劣った存在論的な身分しか持たないとする立場。例えばデカルト(Rene Descartes 1596~1650)は、世界のすべてのものについてはそれが存在していないのではないかと疑うことができる一方、そのように疑う「自己」の存在は疑いえないとし、自己の存在に特別な存在論的な身分を与えた。ただし、疑ったり考えたりする「思惟実体(心)」の存在を特権視しつつも、デカルトは「心」とは異なる「物」の存在を認める物心二元論をとった。
他方、「心」に与えられる観念に基づいてのみ世界の存在を考えようとする観念論(idealism)の立場を突き詰めたバークリー(George Berkeley 1685~1753)は、「存在するとは知覚されること」であり、知覚する精神実体のうちに世界のすべてのものは存在するという一種の唯心論(spiritualism)を結論した。ただし、観念を心に与える「原因」としての実在の世界を否定したことで、バークリーはそうした観念の産出者としての「神」の存在を要請することにもなった。
19世紀ドイツに生まれ、ヘス(Moses Hess 1812~1875)やフォイエルバッハ(Ludwig Feuerbach 1804~1872)らと論争を展開したシュティルナー(Max Stirner 1806~1856)は、私たちの自我は対象として固定化されたり、概念把握したりされえず、瞬間ごとに発展する「移ろいゆく自我」として考えられなければならないとし、そうした唯一無二の私たちの現実存在を指すために「唯一者」という名称を用いた。シュティルナーは、「私は他の自我と並ぶ一つの自我ではなく、唯一者である」、そしてその「唯一者」は「世界の中心そのもの」であり、かつ「世界は唯一者のものである」とし、実践的な「エゴイズム」を帰結する独自の独我論を展開した。
しばしば20世紀最大の哲学者の一人と称されるウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein 1889~1951)も、論理や言語を巡る独自の考察を展開した『論理哲学論考』において、「世界は私の世界である」、「独我論の言わんとすることは正しい」として独我論的な立場を鮮明にしたが、のちにその立場を放棄した。
なお、独我論は自分についての知識はそれ以外のものとは異なる特別な仕方で獲得されるという、自己知の特別な性質から誤って支持された立場に過ぎないのではないか、という独我論への批判も存在する。