比叡山で浄土教を学んだ法然(源空 1133~1212)は「南無阿弥陀仏」と口称する念仏のみによって救われるとする専修念仏(せんじゅねんぶつ)を説き、新興の武士や町衆、農民の間に広げたが、旧仏教側の攻撃にあい、また朝廷によって弾圧されて讃岐国へ流罪に処れた。浄土宗の開祖法然によって、仏教の民衆化が開始された。
比叡山を降りて法然の弟子になった親鸞(1173~1262)も越後に流されたが、地方の豪族や民衆に対して、阿弥陀仏だけを信仰する絶対他力の教えを説き、法然の教えをより徹底させ、浄土真宗の開祖となった。(→「念仏」)
中国で禅宗を学んだ栄西(ようさい、えいさい 1141~1215)は禅の興隆によって鎮護国家の新仏教を樹立することを主張して、関東の武士層に受け入れられ、鎌倉幕府の帰依を受け、臨済宗の開祖になった。
栄西の高弟明全(みょうぜん)に従って中国で禅を学んだ道元(1200~53)は帰国して世俗化した臨済宗を批判し、坐禅だけに専念して悟りを得る只管打坐(しかんたざ)を唱え、越前に永平寺を開いて曹洞宗の開祖になった。
日蓮(1222~82)は法華経の信仰を深めるとともに、地震や洪水や疫病の流行する社会状況から内乱と外寇を予言し、権力者を批判して佐渡へ流罪にされた。その後、身延山に隠棲して、南無妙法連華経の題目を唱えることに法華信仰の核心を凝縮させ、日蓮宗の開祖となった。
時宗の開祖一遍(1239~89)は諸国を歩き、踊り念仏を行って民衆の間に念仏信仰を広め、教団を組織する意思をもたなかった。鎌倉新仏教は教えや修行を簡素にし、信仰だけによって救われることを教え、今日にいたる主流の仏教教団の原型になっている。(→「仏教」)