青森県青森市の、八甲田山から陸奥湾にのびる丘陵の先端(標高約20メートル)にある縄紋時代前期中ごろ~中期末(5500~4000年前ごろ)を中心とする集落・埋葬・低湿地遺跡。遺跡があった当時は陸奥湾が近くまで入り込んでいたと推測される。県営野球場の建設に伴い、青森県教育庁文化財保護課が発掘調査を行ったが、遺跡の重要性から保存・整備されて国の特別史跡に指定された。集落には、縦穴建物(竪穴建物)、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)、道路、廃棄物を盛った盛土遺構など、埋葬には大人を葬った土坑墓や子どもを葬った土器棺墓があり、谷の低湿地には動物の骨や植物の種子など食料資料が大量に残されていた。中でも大型のクリ巨木を用いた掘立柱高層建物が復元されて、当遺跡のモニュメントとなっている。遺物は、大量の土器や石器のほか、黒曜石やヒスイなど遠い原産地から石材を運んで道具や装身具を製作したことを示す資料が出土し、食料としては栽培されたクリ、ヤマブドウ、サルナシなどの種子が多く見つかり、ニワトコは酒作りに用いたと推定されている。動物骨はノウサギ、ムササビなど、鳥骨はガン、カモなど、魚骨はブリやサメなどが多く、そのほかクジラやアシカなど海獣の骨も見つかっている。当遺跡は面積が約40ヘクタールと大規模であり、諸施設が計画性をもって密度高く配置され、長期間途切れることなく存続したものであり、縄紋時代に都市的な要素をもつ集落が存在したことを、初めて明らかにしたものである。なお、縄紋ポシェットの材質の分析が進んだ結果、それがヒノキ科(ヒバかスギ)の樹皮であることがわかった。また縄紋時代中期後半の土器(約4300年前)に人物の線画が描かれていることがわかった。いずれも縄紋時代では極めて珍しい資料である。2014年に、西盛土の北西部から、縄紋時代前期末(約5000年前)の板を垂直に立てたと考えられる筋状の炭化木材が発見された。土坑墓内で遺体を囲むように立てられていたと推定されている。さらにその直上には、幅約4メートル、長さ24メートル以上の溝状遺構が存在したことも明らかにされた。