2004年4月から5月にかけて実施された第14次連邦下院選で、国民会議派は8年ぶりに政権に復帰した。この選挙で、国民会議派は中央で初めての全国的な選挙協力を実施し、協力政党14党は222議席を獲得、59議席を得た左翼政党の支持により、中央での連立(統一進歩連合、UPA)政権樹立に成功(下院総議席数は545)。会議派政権の元蔵相で1991~96年に経済自由化政策を推進したマンモハン・シンが首相となった。国際的にも知名度の高いエコノミストであるシンが首相となったことで、UPA政権は経済界からの高い信頼をかちえている。またUPAは左翼政党との間に政策協定(全国共同最小限綱領、NCMP)を締結し、前政権下で軽視された初等教育、保健衛生、雇用創出などにも政策的な重点をおくことを表明した。しかし3年目に入り、国営企業の株式放出や、印米原子力協定をはじめ、三軍の共同軍事演習の定例化など、米印関係の緊密化をめぐり、左翼政党や連立諸党と、しばしば摩擦を起こしてきた。また右派のインド人民党はテロ対策など治安政策の不備を強く批判してきた。2008年7月には印米原子力協定を批判する左翼政党がUPA政権支持を撤回したが、国民会議派は下院での過半数を確保したまま、09年4~5月の総選挙に臨んだ。この選挙で国民会議派は145議席から206議席へと大きく躍進し、第二党のインド人民党や左翼政党を中心とする「第三勢力」を大きく引き離した。国民会議派は友党も含めて263議席を確保し、5月22日にはマンモハン・シンを首相とする第二次UPA政権が発足した。なお、シン首相自身はアッサム州選出の連邦上院議員である。第二次UPA政権の発足後は、世界的な不況の影響下に経済成長率が5%から6%の水準に低下した。さらには10年末からは、第二世代携帯電話周波数の割り当て、コモンウェルス競技大会での担当相と建設業者の癒着など、大規模な汚職事件が明るみにでた(→「インドの汚職事件」)。政治的にも、国民会議派は12年のウッタル・プラデシュ州議会選挙をはじめ、13年末のデリー、ラージャスターン州議会選挙など、州レベルの選挙で敗北を重ねている。14年5月予定の次期連邦下院選挙に向けて、シン政権の試練が続いている。