山王神道は比叡山延暦寺(→「密教」)の鎮守社、日吉大社(ひよしたいしゃ、ひえたいしゃ)の山王(さんのう)信仰と天台宗の教義を結合して説かれた神仏習合の天台宗系の神道説。13世紀前半の鎌倉時代に、日本の神々は仏が化身として現れたものとする本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)の影響を受けて、日吉大社の神、山王権現を釈迦如来の垂迹とし、日本の神々の中で至高の神であるとして、日吉(日枝)社が諸国に建立されるとともに広まっていった。近世には、天台宗の南光坊天海が徳川幕府を鎮護する上野・寛永寺を建立し、また徳川家康を東照大権現として神格化し、その本地を釈迦如来とするなど、山王神道を継承して、山王一実神道(さんのういちじつしんとう)を唱えた。一方、両部神道は真言密教の金剛界・胎蔵界の両部理論(→「曼荼羅(まんだら)」)によって、神と仏の関係を説いた真言密教系の神仏習合説。13世紀後半、鎌倉時代に本地垂迹説に基づいて、伊勢神宮(正式名称は「神宮」)内宮(ないくう)の天照大神(あまてらすおおみかみ)は胎蔵界の大日如来、外宮(げくう)の豊受大神(とようけのおおかみ)は金剛界の大日如来などとされ、伊勢神道と相互に影響した関係のもとで形成されていった。