伊勢神宮(→「皇室神道」)の外宮(げくう)の禰宜(ねぎ)度会(わたらい)氏が内宮(ないくう)より下位にあった外宮の権威を高めようとして、内宮に対抗して唱え、度会家行(いえゆき)によって大成された神道説。度会神道ともいう。鎌倉~室町時代の前期と江戸時代の後期に二分される。前期には、創始者ともいわれる度会行忠(ゆきただ)、大成者家行、仏教にも精通し教義を深めた度会常昌(つねよし)らを輩出。外宮の祭神豊受大神(とようけのおおかみ、とゆけのおおかみ)を、天地開闢(てんちかいびゃく)で最初に現れた神である『古事記』の天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、『日本書記』の国常立尊(くにのとこたちのみこと)と同一視することで、高天原の主神で太陽神とされる内宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)に勝るというその神徳を広めて、武士や僧侶、民衆の伊勢信仰・参詣が広まっていった。鎌倉後期には、伊勢神宮の由緒を説き、行忠らが教義を記したとされる神道五部書(『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記(あまてらしますいせにしょこうたいじんぐうごちんざしだいき)』『伊勢二所皇太神御鎮座伝記(いせにしょこうたいじんごちんざでんき)』『豊受皇太神御鎮座本紀(とゆけこうたいじんごちんざほんぎ/とようけこうたいじんごちんざほんぎ)』『造伊勢二所太神宮宝基本記(ぞういせにしょだいじんぐうほうきほんぎ)』『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』)が著され、外宮優位の教義が説かれた。また、我が国では仏が衆生を救済するために神に姿を変えて現れたとする「本地垂迹説」(→「神仏習合」)を退け、神が主体で仏を従とする「神本仏迹説」(反本地垂迹説)が唱えられ、室町時代末期に興った吉田神道に引き継がれた。江戸期に入ると、吉田神道に支配された神道界に対して、外宮の禰宜、度会延佳(のぶよし)は伊勢神道の復興に努め、神仏習合の中世神道から脱却して、儒学を取り入れた「神儒一致」の神道を確立。その教えを受けた山崎闇斎が唱えた垂加神道などに影響を及ぼした。