京都・吉田神社の神官・吉田兼倶(よしだかねとも 1435~1511)が儒教や真言密教、道教(タオイズム)、陰陽道などを取り入れて創唱した神道説・流派。兼倶は唯一神道(ゆいいつしんとう)・宗源神道(そうげんしんとう)・元本神道(げんぽんしんとう)などと称し、吉田家の本姓=卜部氏から卜部神道(うらべしんとう)とも呼ばれる。15世紀後半(室町時代後期)、兼倶は『唯一神道名法要集』で、従来の神道を本迹縁起神道(ほんじゃくえんぎしんとう)と両部神道(りょうぶしんとう)(→「山王神道/両部神道」)の二つに分け、それに対して卜部氏の伝えてきたのが唯一至高の神道であると説き、『古事記』で最初に現れる神、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)や『日本書記』で最初に現れる神、国常立尊(くにのとこたちのみこと)を道教の神大元尊神(だいげんそんしん)と同一視し、天地の根源、万物の霊性の顕現だとして、本地垂迹説を転換して、反本地垂迹説(神本仏迹説)を唱えた。1484年(文明16)に京都・吉田山に大元宮(だいげんぐう)と称する神殿を造営し、全国3000余社からすべての天神地祇(てんじんちぎ→「皇室神道」)を勧請(かんじょう)して祀り、朝廷の祭祀を職務として諸国の官社を総轄する神祇官の長官である神祇伯(じんぎはく)・白川家に対抗して、全国の神社に神位・神号を授与して広まっていった。近世になると、吉田家の神社支配が幕府に認められ、神官の免許状を発行して、全国の神社・神官をほぼ掌握するようになった。