2011年12月26日、建築家の菊竹清訓が亡くなった。1960年に旗揚げしたメタボリズム・グループの建築運動を、黒川紀章(くろかわきしょう 1934~2007)、槇文彦(まきふみひこ 1928~)、大高正人(おおたかまさと 1923~2010)、編集者の川添登(かわぞえのぼる 1926~)らとともに牽引(けんいん)した中心的なメンバーである。菊竹は1928年に生まれ、早稲田大学を卒業後、建物全体を持ち上げ、子供が生まれたら部屋を吊り下げて増築する自邸のスカイハウス(1958年)で若くして注目を集め、60年代には日本建築学会賞(作品)を受賞した出雲大社庁の舎(1964年)、ホテル東光園(1965年)、都城市民会館(1966年)など、先端的な感性とアクロバティックな構造が融合した傑作を生みだした。70年の日本万国博覧会(大阪万博)では、取り外し可能なカプセル群をとりつけたエキスポタワーを設計している。75年の沖縄国際海洋博覧会で実現したアクアポリスを含む、一連の未来的な海上都市のプロジェクト、あるいは空中に持ち上げた江戸東京博物館(1993年)や2005年日本国際博覧会(愛知万博)のグローバル・ループなどでは人工地盤も追求した。また「か・かた・かたち」(1969年)と命名されたユニークな設計手法論も発表している。そして菊竹事務所からは、伊東豊雄(いとうとよお 1941~)、長谷川逸子(はせがわいつこ 1941~)、内井昭蔵(うちいしょうぞう 1933~2002)、内藤廣(ないとうひろし 1950~)ほか、多くのすぐれた建築家が巣立っていったことも特筆されるだろう。東日本大震災の後、未来や都市計画を考えることが議論されるようになったが、菊竹はまさにデザインを通じて、未来を構想する建築家だった。それゆえ、今なお彼の態度から学ぶべきことは少なくない。