1960年代から70年代初めにかけての一時期、欧米諸国は原子力の夢に燃え、日本も約10年遅れてそれに追従した。しかし、運転中、建設中、計画中を合わせた原子力発電所の基数は、アメリカでは74年、ヨーロッパでは77年がピークで、それ以降、開発スピードが激減した。日本も、90年までは毎年約2基の原子力発電所を運転開始させてきたが、それ以降は国内での建設が激減した。崩壊に瀕した原子力産業は、外国へ原子力発電所を売ることを模索するようになり、現在、原子力産業による熾烈(しれつ)な世界市場分割競争となっている。2010年には、アラブ首長国連邦(UAE)への売り込みを韓国が、ベトナムの第1期計画への売り込みをロシアが勝ち取った。危機感を強めた日本の政府と原子力産業はオールジャパン体制で国際競争に臨むことになり、国際原子力開発株式会社を立ち上げた。三菱、日立、東芝の3原子力プラントメーカー、9電力会社、産業革新機構の13団体が参画して設立された組織で、まずはベトナムでの2期計画を勝ち取るために動いている。しかし、日本国内の原子力産業は加圧水型炉(PWR)と沸騰水型炉(BWR)とに二分されており、どちらを売るのか、そしてどのように企業同士の利益を分け合うか難しい課題がある。企業の寄せ集めでつぎはぎの原子力発電所を作るとすれば、高速増殖炉(FBR)「もんじゅ」と同様に問題を起こす可能性も生じる。また、高レベル放射性廃棄物の始末の責任までも引き受けることになっているが、自国の高レベル放射性廃棄物の始末もままならない現状であるうえ、核拡散問題への対応など課題が多い。