1854年(安政元)の開国により長い鎖国は終わりを告げ、長崎や横浜などの居留地には、キリスト教会が建てられていった。カトリックでは、65年(慶応元)フランスの神父ベルナール・プティジャン(Bernard-Thade Petitjean 1829~84 プチジャン神父)によって、長崎に大浦天主堂が建立されたが、同年3月17日、これまで潜伏していた浦上の隠れキリシタン(→「キリシタン禁教令」)が、礼拝のためここに姿を現した。これを「キリシタンの復活」(教会側からは「キリシタンの発見」)と呼ぶ。しかし、2年後の67年(慶応3)、信徒の存在が公になると、「浦上四番崩れ」と呼ばれるキリシタン大検挙事件が起こった。同年江戸幕府は倒れるが、これに代わった明治政府もキリシタン禁教令を踏襲。浦上村は一村3394人全員が流刑に処せられ、改宗を迫る激しい拷問を受けた。これを知った欧米の外交団から強い抗議を受け、明治政府は73年(明治6)に切支丹邪宗門禁制の高札を撤廃。およそ280年の時を経て、キリスト教は禁を解かれた。一方ロシア正教会やプロテスタント諸派も、開国にともない伝道を始めていた。例えばロシア正教会の修道士(80年に主教)ニコライ・カサートキン(1836~1912 ニコライ主教)は、1861年(文久元)に箱館(函館)のロシア領事館司祭として赴任。72年(明治5)には東京に進出して、84年(明治17)から日本ハリストス正教会東京復活大聖堂(ニコライ堂)の建設を始めた(91年完成)。また、安中藩(群馬県)の江戸詰藩士の長男だった新島襄(1843~90)は、64年(元治元)ニコライの支援を受けて箱館(函館)からアメリカに密航。当地でピューリタンの洗礼を受け、神学を学んだ。75年(明治8)に帰国すると、京都に同志社英学校(のちの同志社大学)を設立。ここに小崎弘道や海老名弾正、宮川経輝ら、熊本バンドと呼ばれるプロテスタント信者団の青年たちが入学し、やがて日本のプロテスタント指導者になっていった。