小泉純一郎首相の自由民主党(自民党)総裁任期切れを受けて実施された総裁選を圧勝した安倍晋三を首相に2006年9月26日発足した政権。小泉内閣と同じく公明党との連立政権。安倍首相は初めての戦後生まれで、戦後最年少の首相となった。党執行部・組閣人事では、派閥からの推薦は受けず、小泉前首相がとってきた「脱派閥」路線を踏襲したが、結果的には盟友を多用する「お仲間内閣」であり、総裁選での安倍支持に対する「論功行賞内閣」となった。首相補佐官を5人に増やし官邸の機能強化(ホワイトハウス化)を狙った。政策面では総裁選で憲法改正や教育改革を強調し、組閣時には「美しい国創り内閣」を宣言。構造改革を「加速、補強」させるとしたほか、教育再生会議の新設、日本型NSC(国家安全保障会議)の検討および集団的自衛権に関する憲法解釈変更の検討などを打ち出した。発足直後の内閣支持率は65%(共同通信世論調査)で小泉、細川政権に次ぐ高い水準でスタートしたが、郵政造反組の復党問題で党内の確執が増し、政治とカネの問題が続出して人気が急落した。佐田玄一郎行政改革担当相が06年12月に事務所費問題で辞任、松岡利勝農水相が07年5月に「政治とカネ」問題で自殺、久間章生防衛相が同7月に原爆投下「しょうがない」発言で引責辞任し、内閣支持率はさらに低下した。7月29日投票の参院選で、自民党は改選64議席を37議席に後退させる地滑り的な敗北を喫した。それでも安倍首相は「続投」を表明、8月1日に事務所費問題を起こした赤城徳彦農水相を更迭。8月27日、内閣改造と自民党役員人事を断行して政権浮揚を図ったが、9月12日、突然、退陣を表明した。辞任理由にインド洋での給油継続をめぐり民主党の小沢一郎代表との党首会談が断られたことや健康上の理由を挙げたが、代表質問当日の辞任は政治責任の放棄との強い批判を浴びた。(→「第2次安倍政権(安倍晋三政権)」「第3次安倍政権(安倍晋三政権)」)