2011年8月、菅直人首相の辞意表明を受けて、実施された民主党の代表選挙には、海江田万里(62歳、経済産業大臣)、野田佳彦(54、財務大臣)、前原誠司(49、前外務大臣)、鹿野道彦(69、農林水産大臣)、馬淵澄夫(51、前国土交通大臣)の5人が立候補した。8月29日に実施された選挙では、第1回目の投票では、小沢一郎元代表の支持を受けた海江田が143票で、野田は第2位の102票を獲得したが、過半数を獲得した候補がいなかったため決選投票となり、小沢への批判票を集めた野田が215票を獲得して、177票の海江田を逆転し、第9代民主党代表に選出された。野田は1957年千葉県船橋市出身。父は自衛官。80年早稲田大学政経学部を卒業し、松下政経塾の第1期生となる。87年に千葉県議となり、2期務める。93年の総選挙で日本新党から立候補して初当選を果たした。96年総選挙では新進党から立候補したが落選、2000年総選挙で民主党から立候補して雪辱を果たした。11年8月30日には国会で内閣総理大臣指名選挙が行われ、野田が内閣総理大臣に指名され、9月2日に内閣を組織した。
野田内閣は、省庁の事務次官からなる各府省連絡会議を定例化することで官僚との協調を図ることをめざした。また、中長期的な政策を構想するために関係閣僚のほか、日銀総裁などの有識者からなる国家戦略会議を作り、その検討を踏まえて12月には「日本再生の基本戦略」を閣議決定した。東日本大震災に対しては第3次補正予算を作成して復興に対処するとともに、東京電力福島第一原子力発電所について、12月に「冷温停止状態」になったという判断を下し、次のステップとして、除染と避難解除の方向を探ることとした。また、菅内閣以来の懸案であるTPP(環太平洋経済連携協定)参加問題と「社会保障と税の一体改革」について、前者については、野田首相は11月11日に「交渉参加に向けて関係国との協議に入る」と表明した。また、後者については12年1月6日に、消費税率を14年4月に8%、15年10月に10%に引き上げることを柱とした一体改革大綱素案を決定した。しかし、第179回臨時国会で山岡賢次消費者担当大臣と一川保夫防衛大臣に対する問責決議案が参議院で可決されたために、1月13日に内閣を改造した。さらに、4月20日には前田武志国土交通相と田中直紀防衛相に対する問責決議が参議院で採択されたために、6月4日に内閣の再改造を強いられた。
内閣改造後、野田内閣は原発の40年原則廃炉を決める一方で(1月31日)、大飯原発の再稼働を決定した(6月16日)。また、石原慎太郎東京都知事が尖閣諸島を都が購入する意思を表明したことを受けて(4月16日)、尖閣諸島を国有化した(9月11日)。野田内閣は一体改革大綱素案を受けて、3月30日に、消費税の増税を含む社会保障と税の一体改革関連法案を国会に提出した。法案に対して民主党と自民党と公明党の間で修正協議がまとまり、6月15日に修正案が衆議院で可決されたが、民主党では修正案に反対する小沢一郎ら57人が反対投票を投じ、17人が採決に欠席した。小沢のグループは7月2日に民主党を離党し、新党「国民の生活が第一」を結成した(7月11日)。一体改革関連法案は8月8日に、野田首相、谷垣禎一自民党総裁、山口那津男公明党代表の会談で、野田首相が法案成立後は「近いうちに国民に信を問う」と表明したことにより、8月10日に参議院を通過、成立した。野田首相は菅内閣からの懸案である消費税増税を実現することができたのである。野田首相は9月21日の民主党代表選挙で再選され、10月1日に野田内閣の第3次改造内閣を発足させたが、自民党の党首に対する約束に従って、11月16日に衆議院を解散した。その結果、12月16日に実施された総選挙において、自民党は過半数の294議席を獲得したが、民主党の議席はわずか57議席でしかなかった。特別国会が召集された12月26日に野田内閣は総辞職し、3年余りの民主党政権は幕を閉じた。