ズン首相は、前任のカイ首相と比べると、どちらかといえば親中派と目されていた。ところが、首相に就任するや、最初の訪問国に日本を選び、それに呼応する形で、日本の安倍晋三首相(当時)も経団連の大型ビジネスミッションを引き連れる形で訪越、両国は一気に双方を戦略的パートナーと呼び合う仲になった。
「戦略的パートナー」のもつ意味
戦略という言葉は、ベトナムでは特段の重みをもつ。「大きな方針は共産党が、行政はその方針を執行する機関であるべき」、という機能分化が極めて鮮明なベトナムでは、この戦略という言葉は、「党の独占用語であって、行政府一存では使えない」、とされる。
ベトナムは、北属南進の歴史をもつといわれる。北隣の中国から常に重圧を受け、時に中国に保護国化されながらも、南に対しては領土を拡張していく、という行動パターンがこの国の歴史を彩ってきた。中国に対しては、それ故、反発と融和という、極めて複雑な歴史的感情を引きずり続けることになる。親中派とされていた人が、首相に就任するや、間髪を入れず、日本に熱烈な求愛を仕掛けてくる背景も、それなりに理解できるというものだろう。
日本とのかかわり
ベトナムは元朝(フビライ・ハーン)に3度も領土を侵攻されている。フビライは、日本とベトナムにそれぞれ侵攻し、2度失敗しているが、3度目を企てるに際し、どちらの国を先に攻めるか迷ったという。結果は、ベトナムを優先したわけだが、これも失敗、ために、日本は3度目の侵攻を被らずに済んでいる。こうしたエピソードなども、ベトナムの人々にとっては、日本に対して親しみをもたせる要因、として働いている。また、1880年代以降、ベトナムはフランスの保護国となるが、1900年代に入ると、国内に反仏ムードが広がる中、ベトナムの若者の間で日本への留学熱が高まり、そうした熱気が「日本に学ぶ」東遊運動となり、1907年にはハノイに東京義塾が創設された。その間、200人以上のベトナムの若者が日本に留学に来ており、静岡県浅羽町(現袋井市)には、東遊運動の指導者ファン・ボイ・チャウが日本人支援者への報恩のために建てた記念碑が残されている。
2000年代に入ってからは、ビジネスの分野でも両国の関係が深まってくる。日本企業が、グローバル化の中での競争力強化を目指し、中国やASEAN(東南アジア諸国連合)諸国を舞台に、部品や中間製品の生産工程のネットワークを構築しつつあった。折からの中国での投資環境悪化と、反日デモや中国での賃金コスト上昇などによるビジネス環境悪化に助長される形で、ベトナムが日本企業の投資の受け皿に急浮上してきたからである。昨今、ベトナムにとって日本が、貿易(06年の輸出入)で中国に次いで第2位、投資実行額で第1位となっているのも、こうした事情を反映したものといってよい。
竹のカーテンと遅れたスタート
ベトナムは、社会主義体制を維持しながら、市場経済化を目指す改革路線を歩んできた。この路線の起源は1986年12月の共産党第6回党大会にさかのぼる。その場で、グエン・ヴァン・リン書記長(当時)が「ドイモイ(刷新)」政策を打ち出し、以後、時々に重点を変えながらも、この路線が今日まで踏襲されてきている。
ドイモイ政策の眼目は、中国が改革開放に大きくかじを取ったという国際情勢下、ベトナムも旧来の慣習や教条主義的発想を脱皮し、思考方法や共産党の組織などを刷新していこう、という点にあった。
この時点以前は、ベトナムも、俗にいう東西冷戦体制下、共産中国の周りに張り巡らされた竹のカーテンの向こう側に包み込まれ、それ故、西側アジア陣営内で進みつつあった経済統合の流れに参加できないでいた。
それが、冷戦体制の崩壊、中国の改革開放への転換、という環境変化で、ベトナムもドイモイ路線に大きくかじを切り替え、この路線が大胆な経済改革を導入し、さらには積極的な外資呼び込み、ひいては、世界経済の枠組みへの本格参入、につながっていくことになる。ベトナムの経済離陸は、竹のカーテンの崩壊で条件が熟し、中国での外資主導型経済発展の成功がモデルとなって実現した。
経済離陸のエンジンに火がつくと、成長速度も一気に加速された。90年代、ベトナムの年平均実質成長率は9%を超えるに至った。ところが、97年に入るとアジア通貨危機が発生、外資の流入も細り、ここに第1次ベトナムブームも終焉してしまう。
高成長再開の下での山積問題への取り組み
2000年代に入ると、ベトナム経済は再び高成長経路に復帰する。その要因は、外国投資法改定(00年)、アメリカとの通商協定締結(発効01年)、WTO(世界貿易機関)加盟(06年)などで、ベトナム自身が投資受け入れ条件を大幅に改善したことが大きい。さらに、中国に巨大な消費市場が出現したことや、日本企業の生産工程間分業が加速、世界的カネ余りに助長され、ベトナムへの大幅な外資流入が再開された。その結果、2000年代に入ってから、ベトナム経済は7~8%台の高成長を続けている。
しかし、その経済実態を一見すれば、取り組むべき課題が山積している。都市と農村との間の大きな所得格差、電力や都市基盤インフラの不足、工業化に向けて牽引(けんいん)役を果たせる基盤的産業の不在、そして何よりも、国土を一体活用するための交通網の不備等など。こうした課題解消に、ベトナムは、外資に加え、ここでも日本からの援助、に大きな期待を寄せている。
具体的に、ズン首相は日本に、三つの分野での協力要請を行った。一つは、ベトナム北部と南部を結ぶ高速道路の建設。二つは、同じく、南北を結ぶ高速鉄道の建設。三つは、首都ハノイ近隣のホアラック工業団地への日本のハイテク企業や研究機関の誘致。
さらに、07年11月に日本を国賓として訪問したチェット国家主席が、これら三つに加えて、4番目の要請を日本政府に行った。それは、ハノイとホーチミンの交通渋滞解消への協力。
ベトナムの人口は約8600万人。もう10年もすれば1億人の大台を突破するかもしれない。そうした国が高成長を記録し続け、ASEANの一角に存在感を増せば、太平洋に面した東アジアは、北の日本・韓国から、中国の沿海部、南のベトナムまで、南北に長いシームレスの大経済圏を構成することになる。そうなった際の日本の潜在的利益は極めて大きいものとなるはずだ。日本がベトナムの経済発展に協力すれば、恐らく将来、日本こそがそこからの最大の利益享受国となれるのである。
ドイモイ政策
1986年の第6回党大会にて採択された政策。それまでの計画経済に代わり市場経済システムを導入するとともに、貿易自由化や外資導入など対外開放の促進を図る、改革・開放政策。ドイモイとは「刷新」を意味する。