上昇する物価と世界経済の後退
つい1年ほど前までは物価下落が懸念されていた消費者物価上昇率は、2007年の10月以降上昇に転じ、08年7月には前年同月比で約10年ぶりに2%台に乗せた。物価上昇の基調は、国内企業物価指数でより顕著であり、同月には7.3%の上昇と27年ぶりの高水準であった。いずれも、07年以降のガソリンなどエネルギー関連商品や、世界的資源高による食料品の値上げが主な押し上げ要因である。一方、日本国内の景気は、ここにきて後退局面入りがはっきりした。「いざなぎ超え」を誇った戦後最長の景気拡張も、すでに07年中に後退期に転じたとの見方がコンセンサスになりつつある。
08年9月に入ってから、アメリカの金融当局がサブプライムローン問題で巨額の赤字決算となった大手証券会社、リーマン・ブラザーズの救済を見送ったことから、株価暴落とともに世界全体の景気後退の潮流が明白になり、日本経済の先行きにも悲観論がまん延することになった。これら物価と景気の二つの観察を合わせると、現在の日本経済は、一見すると「不況期の物価高」というスタグフレーションの様相を呈している。
1970年代の「スタグフレーション」
不況(stagnation)とインフレーション(inflation)からスタグフレーション(stagflation)という合成語が使われだしたのは、1973年の第1次石油ショック後であった。79年には第2次石油ショックも起こり、大幅な物価上昇と景気後退が見られた。スタグフレーションがその時代の新語として登場したのは、それまではインフレといえば好景気の時に起こるものとの認識があったからだが、スタグフレーションを理論的に説明できないわけではない。そもそもインフレには2種類ある。
好景気の時に起こるインフレは、総需要の増加が物価高を引き起す「デマンド・プル型」である。もう一つは、原材料高や賃金高によって生じる生産費の増加を、生産者が価格に転嫁することから起こる「コスト・プッシュ型」であり、この場合には価格上昇による需要減の分だけマクロの総生産が縮小する。70年代の2度の石油ショックは、まさに「コスト・プッシュ型」のインフレによる景気後退であった。
現在の日本はスタグフレーションか?
日本経済の現況は、原油高が起こってから物価高が生じつつある局面にある。しかし、1970年代の石油ショックと比べると、二つの点で状況が異なる。第1に、そもそもの原油高の性質が異なる。
1970年代の2回の原油高は、産油国による一方的な値上げ通告がショック源であった。今回は、ニューヨーク原油先物市場での取引価格の高騰であり、バブル(投機の泡)の要素が強く現段階の実需動向とは乖離(かいり)している。もちろん、今回の物価高にはバイオエタノールの増産や異常気象による穀物価格の上昇、BRICs諸国に代表される新興国との稀少資源の争奪戦、そして為替安(特に対ドル以外)と、原油高のほかにも諸要因がある。しかし、70年代の文字通りの「ショック」としての産油国の決意表明と比べると、それぞれの因果性を合計したとしても全体としてのインパクトが小さいことは確かだろう。
次に異なるのは、賃金の動向である。
第1次石油ショックでは、原油高→物価高→賃金高→物価高、といった典型的な悪循環のスパイラルが起こった。第2次石油ショックでは学習効果によって賃金高を自制した経緯があるが、今回は景気後退と崩壊した日本的雇用慣行を背景に、そもそも賃金高が引き起こされる環境にない。
望まれる景気・物価対策は?
日本経済のスタグフレーション懸念には、2008年9月以降のアメリカ発の世界的金融危機の急展開によって、大きく不確実性が増すことになった。すなわち、世界的な株価の暴落に伴って、ドル安(円高)と原油価格や穀物価格の下落が同時に起こり、一方では「コスト・プッシュ型」のインフレ圧力が減少することになったものの、他方で、アメリカの不動産価格の急落に端を発する急速な景気減速が本格化し、世界的な景気停滞が長引くとの景況感が形成されてしまった。金融危機には大量の流動性資金の供給で対応した日本ではあるが、景気・物価対策としては何が望まれるであろうか。
政府与党は08年8月末に6年ぶりに12兆円規模の総合経済対策の発動を決定し、10月には麻生太郎内閣の下でその一部を盛り込んだ補正予算が成立した。また、衆議院の解散総選挙が近いという観測もあって、所得減税などさらなる景気対策への期待が高まっている。
需要創出型の景気対策は、本来スタグレーションには愚策となる。第1次石油ショック後のスタグフレーションでは、赤字国債を発行して景気対策を発動したが、いたずらに「デマンド・プル型」の追加的な物価高を引き起こしたのだった。
しかしながら、現在の日本が直面しているのは、名目賃金の上昇が想定しにくい変形の小型のスタグフレーションであり、そうした連鎖は杞憂に終わるであろう。むしろ、財政出動による景気対策によっては、下向きの景気循環の波を反転させる期待形成の醸成に役立つ可能性がある。特に、ゼロ金利政策を解除したとはいえ、政策金利がいまだに1%に達しない中では金融政策には多くを期待できない環境にある。そもそも物価上昇がある中では、「利下げか、利上げか」の選択にも異説がありえよう。
インフレについては、マイルドなインフレを容認するのが望まれる。ゼロ金利政策や量的緩和政策で過剰に金融緩和した「つけ」が、高インフレとして返ってくるのが過去の経験から類推される姿であるが、現在の日本経済ではマイルドなインフレでとどまってくれる可能性がある。理論的観点からは、「コスト・プッシュ型インフレ」への最善の対策は生産性の上昇にあるが、過去の実績が示すように、この面での民間部門の自助努力にそれなりの期待が持てるからである。