4人に1人が国外脱出
かつて温暖な気候と恵まれた雨量から「パンかご」と呼ばれ、順調な経済によってアフリカでは比較的高い生活水準を誇っていたジンバブエが、建国以来未曾有(みぞう)の危機に陥っている。2008年8月以来、公衆衛生の破綻で6万人以上の住民がコレラにかかり、すでに3000人以上が死亡している。経済は悪化の一途をたどり、同年7月には、年率2億%を超える、近現代史に残る超インフレを記録し、あまりにかさばる紙幣のため、表示単位を切り下げるデノミを再度にわたり実施している。翌8月のデノミでは100億ジンバブエドルを1ジンバブエドルにせざるを得なかった。失業率は90%以上に達し、人口の4分の1とも推定される300万人以上が、南アフリカやザンビアなどの近隣諸国に流出した。南アフリカでは、この大量流出民に対する排除暴力事件も生じ、今やこの危機は周辺国の政治社会問題にまで及んでいる。
政治的混乱も続いている。08年3月に総選挙が行われ、下院において最大野党の民主変革運動(MDC)の議席数が与党の議席を上回った。大統領選でも、MDCのツァンギライ議長が初回投票でムガベを数ポイント上回ったが、過半数には達せず、6月に決選投票が行われることになった。ところが政府による野党に対する暴力が止まらないとして、ツァンギライは立候補を辞退し、ムガベ大統領が単独で当選を果たした。その後、アフリカ連合(AU)や南部アフリカ開発共同体(SADC)の調停で、ムガベは大統領職にとどまり首相はツァンギライとすることで与野党が合意し、09年2月に一応、連立政権が発足した。
欧米メディアは、こうした政治経済危機のルーツを、頑固で権力にしがみつくムガベ大統領の個人的欠陥に求めがちであるが、それだけでは、旧宗主国のイギリスやアメリカなどの度重なる非難や経済制裁にもかかわらず、なぜこれほどまでムガベ体制が持ちこたえてきたかという事実を十分説明できない。
カリスマだったムガベ大統領
危機のルーツには、少なくともムガベが南部アフリカ現代史で果たした歴史的役割の評価と、旧宗主国イギリスによるジンバブエ土地問題への公約不履行という、二つの要因が挙げられなければならない。第一は、ムガベが、ヨーロッパの植民地支配に対し自らの力で独立を勝ち取った、アフリカ全体でも数少ないカリスマ的アフリカ人リーダーの一人であることだ。
ジンバブエはかつて、イギリスの植民地推進者ローズの名にちなんで「ローデシア」と呼ばれる、白人中心の実質的アパルトヘイト国家だった。1960年代、ムガベは、他のナショナリストとともに反植民地闘争を開始し、ZANU愛国戦線(ZANU-PF)という名称でゲリラ活動を展開した。
79年、ムガベはイギリスと停戦し(ランカスター合意)、翌80年、新生国家「ジンバブエ」の首相となり、後には大統領となる。ムガベはその後、現在に至るまで権力の座にとどまって来た。
80年代、ムガベ大統領は、首都ハラレに、南アフリカ民族会議(ANC)の拠点を提供するなど、南アフリカの反アパルトヘイト運動を積極的に支援し、アフリカで絶大な尊敬を得た。これに対して南アフリカの白人政権は、数度にわたり、ジンバブエのANC事務所への爆弾テロや空爆などで応酬し、ジンバブエの不安定化を図った。南アフリカの反差別運動に対するムガベの揺るぎなき支援は、ジンバブエの南部アフリカでの評価を確固たるものにした。
かつてANCのリーダーだったムベキ元南アフリカ大統領が、ここ数年ジンバブエでの調停活動を行っているが、その背景には、その頃のムガベへの恩義がある。これに加えて、ムベキがまだ60歳代であるのに対して、ムガベはすでに80歳代であることから、長老重視のアフリカ政治の伝統も働き、正面からのムガベ批判はできないのである。
それどころか、かつて南アフリカの反アパルトヘイト勢力を支援した諸国が加盟するSADCでは、2007年の首脳会議において、ムガベに対して野党との対話を促す一方で、イギリスなど欧米諸国による経済制裁を批判し、その圧力にアフリカ人として毅然と立ち向かっているとして、ジンバブエ支持が満場一致で再確認されたほどである。
支援公約を投げ出したイギリス
危機が長びくもう一つの要因は、白人入植者の土地問題に対するイギリスの対応である。前述した1979年のランカスター合意の時点で、ジンバブエでは、わずか6000人の白人入植者がもっとも肥沃(ひよく)な土地のほとんどを所有し、450万人のアフリカ人が、残りの土地での伝統的農業に押しやられている状況だった。イギリス政府は同合意で、白人の売り手とアフリカ人の買い手の合意による土地改革を資金援助によって支援すると公約した。
しかし実際には、それから10年たっても合意による土地改革は進まず、それに追い打ちをかけるかのように、97年、イギリスのブレア政権は、土地改革支援を打ち切ることを通告し、歴代の政権が継承してきた公約を覆してしまう。
このとき、ジンバブエの国家財政は、国際通貨基金(IMF)に課せられた経済改革の不調と、旧解放軍戦士に対する大盤振る舞いによって、危機的状況にあった。そのため、ブレアの通告を受けてムガベ政権は、2000年になるや、白人大農場を補償なく接収。政権維持に功績のある軍人や与党関係者と貧農への再配分を強行したのである。こうした経緯から、身内への配分は良くないが、補償なき土地接収と貧農への配分自体は支持する、というジンバブエ人は、今日でも少なくない。
南部アフリカ諸国がムガベ政権を支持し、欧米諸国が反ムガベ勢力を支持する「民主化のねじれ現象」の背景には、こうした経緯がある。支援公約を覆したイギリス政府と、ジンバブエを「ならず者国家」に仕立て上げ、反ムガベ勢力に多大な資金援助をする一方で、食糧援助への反対さえも辞さなかったアメリカの前ブッシュ政権の責任は重い。
今後のジンバブエ危機の行方は、ムガベ独裁体制の幕引きに向けて、暴力や露骨な外圧を伴わずに軟着陸させることができるかどうかにかかっていると言えるだろう。