ため込んできた財産が一瞬で消失
北朝鮮経済が大混乱に陥っている。結論から述べると、現状はこの10年で最悪、餓死者まで発生している有り様である。原因は、2009年11月30日に電撃的に断行されたデノミ=「貨幣交換」(新ウォンへの通貨切り下げ)措置のためである。あまりに唐突、無茶なデノミ実施によって、北朝鮮国内では物流の麻痺(まひ)、超インフレが起こっているのだ。金正日政権が断行したデノミの概要は次のとおりだ。(1)旧ウォンを新ウォンに100対1で交換する、(2)交換額の上限を1世帯あたり旧ウォンの現金10万ウォンとする、(3)交換期限は同年12月6日まで、(4)外貨の国内での使用を一切禁ずる、(5)配慮金として新ウォンを1人当たり500ウォン支給する。
この突然のデノミは、一般国民に事前にまったく知らされなかった。また、交換上限の10万ウォンというのは、実勢レートで約2500円程度で、地方都市の中間層のざっと1カ月の生活費に過ぎない(首都平壌はこの2倍程度)。交換上限以上の金は紙くずになってしまうわけで、庶民から小金をため込んだ比較的余裕のある層まで、大なり小なり打撃を被った。
筆者は長く北朝鮮内部に住む人たちと一緒に取材を続けてきた。彼らが伝えるところによると、何年間もため込んできた財産が一瞬にしてパーになったり、商売の元手にしようと貨幣交換直前に多額の借金をした人が、新ウォンでの返済を求められて借金のかたに家を明け渡す羽目になってホームレスになったり、商品代金や借金の清算を旧ウォンでやるのか新ウォンでやるのかでいさかいが起こったりして、殺人事件や自殺まで発生したという。
一方、最貧層の人たちの中には、この十数年の間に貧富の格差が急に進んで不公平感が募っていたため、金を持っている者たちが途方に暮れている様子を見て、「これであいつら金持ちも私たちも同じ立場だ」と歓迎する人もいたようだ。しかし、後に触れるが、デノミ実施から間もなくして超インフレが発生し、貧困層は、さらに窮してしまうことになった。
デノミの本当の狙いは何か
では金正日政権は、なぜこの時期にデノミ断行に踏み切ったのだろうか? 北朝鮮当局は、デノミは人民生活向上のためであり、(1)インフレ退治、(2)社会主義原則と秩序に基づく経済管理強化が目的だと説明している(09年12月7日付朝鮮新報など)。北朝鮮は、国家による計画経済体制と消費物資の国定価格による配給制度を、建前上は放棄していない。だが農業不振が続き、工業生産も、軍需品などの一部工場を除いて、稼働率はざっと20~30%程度。統制経済がぼろぼろになっていく一方で、一般民衆は生きていくために、違法と知りつつ商売行為を活発化させていった。こうして1990年代後半からどんどん急拡大していった市場経済は、中国とリンクしつつ、国の実体経済を牛耳るほどに膨張していった。その半面、インフレもひどく、この10年で消費者物価は20~25倍も上昇していた。北朝鮮当局は、コントロールの利かなくなった市場経済を抑え込んで統制することと、物価の安定を図ることが、デノミ断行の目的だというのである。
それではその結果はどうか? 2010年3月中旬になっても混乱は収まっていないようである。まずは、大変な超インフレの発生である。デノミ実施直後、白米は40ウォン、トウモロコシは20ウォン程度だったのが、3月後半の時点で白米は1000ウォン、トウモロコシは400~500ウォン(いずれも1キロ)に急騰した。3カ月あまりで約25倍に値上がりしたことになる。中国の人民元の闇交換レートも、1元が15ウォンだったのが約200ウォンに下落した。金正日政権によるデノミは、インフレ退治どころか超インフレを招いてしまったのだ。新ウォンへの信頼低下がその原因である。
「毎日あれよあれよという間に物価が上がる。売り惜しみが横行して市場にも十分に物が出てこない」
北朝鮮内部の取材パートナーたちの弁だ。
小さな商売や非合法の日雇い労働(北朝鮮では個人が人を雇うことは禁止)で日銭を稼いで暮らしてきた人は、経済が委縮したため、現金収入を大幅に減らしてしまった。食糧配給もない中、このような貧困層の人たちは金がなくて食べ物にアクセスできなくなり、一部で餓死者が出るような惨状が現れている。
今回のデノミ断行の本当の狙いは何か。筆者の見立ては次のようなものだ。(1)政治的には、増殖する一方の市場経済を縮小再編させ、社会全般の国家統制を立て直すこと、(2)経済的には、国民から資金を強奪すること。
北朝鮮社会は不安定化する
市場経済の増殖は、国民が経済活動の自由領域をどんどん広げていることを意味する。それは、金正日政権の独裁維持の要である人民統制が弱体化するということに他ならない。実際、この10年ほどの間に、「食べていけるのは政府のおかけでも金正日将軍のおかげでもなく、市場で商売しているから」という意識が当たり前になった。商売のために人は移動し情報も交換しなければならない。市場経済のこれ以上の増殖は、体制維持にとって脅威だとの判断があって、デノミによって市場に一定の打撃を加える政治的意図があったものと思われる。だが付言するならば、金正日政権の狙いは単純な「市場つぶし」そのものではないだろう。経済不振の北朝鮮にあって、今や特権層にとっても、富を手に入れられるのは市場しかない。市場そのものをまったくつぶしてしまっては元も子もないわけだ。市場は「たたいて縮小させ、あらためて権力の都合のいいように再編して復活させる」ということではないか。政府の後続措置を見ないと判断は難しいが、現時点で筆者はそう推測している。
08年の国際金融危機と韓国との関係悪化で、政府も支配層も非常に金回りが悪くなった。北朝鮮の外貨の稼ぎ頭は、鉄鉱石や石炭といった鉱物資源や海産物など、天然資源の切り売りである。この国際価格が金融危機のために暴落した。韓国との関係悪化で、観光収入と食糧・肥料支援が途絶えてしまった。金に窮した金正日政権は、ついに国民の財産の強奪のために、デノミという禁じ手を使ったと筆者は考えている。そうでなければ、10万ウォンまでという交換限度額を設ける必要などない。限度額以上の旧ウォンは実質的に権力によって没収されたのである。
デノミについて北朝鮮の人たちが口々に言う。「『貨幣交換』は国家による強盗行為だ」と。
北朝鮮の民衆のほとんどは、今回のデノミの混乱を金正日総書記による失政だと考えている。国民はさらに国家を信じなくなっているし、民心の離反もかつてないほどだ。露骨な国民財産の強奪は、必ず権力者に対する民衆の怨嗟(えんさ)と反発を招来することになるだろう。大胆な政策転換がない限り、経済の混乱が短期間に収束することは考えにくく、社会の不安定化が進む可能性が高いと筆者は見ている。デノミによって金正日政権が負った傷はあまりに大きい。