2020年度から導入される予定の新しい「高等学校学習指導要領」では、18歳選挙権や成人年齢の引き下げに合わせた「主権者教育」が重要なポイントになると言われている。
国民全体の政治への関心が低く……あるいは、関心はあっても「選挙では何も変わらない」という、一種の諦観が広がりつつあるこの国で「大人の入り口」に立つ高校生が、「一人の主権者」としての自覚を持ち、政治を主体的に「自分の問題」として捉えることは、民主主義の未来を支える重要な鍵となるはずだ。前文部科学省事務次官の前川喜平氏が語る、「主権者教育」の意味と重み、そして「公教育」本来の目的とは。
──2020年度から導入される高等学校の新たな学習指導要領では「主権者教育」にも重点が置かれていると言われています。そうした狙いが具体的な学習内容にはどのような形で表れているのでしょうか?
前川 今回の高等学校の学習指導要領の特に社会科系は大幅に変わります。「歴史総合」「地理総合」「公共」というのは、いわば主権者教育3点セットと言っていい。
ここにも、「ロングインタビュー1」でお話しした「政治からの圧力」と、それを逆手に取った文部科学省(以下、文科省)側のホンネという、ある意味相反する側面があって、例えば「歴史総合」は、「日本史を必須にしろ」という政治からの圧力に「わかりました、日本史やります。わかりました、やります」と応えた形をとりながら、実際には世界史と抱き合わせで、しかも、近現代を中心にしています。
そうやって、世界史の中に日本を相対化して見ていく。しかも、近現代で現代につながっているところをきっちり勉強する。16世紀ぐらいからあと、特に18世紀あたりからあとをしっかりと勉強する。産業革命や民主主義革命や、あるいは帝国主義や世界大戦といったものをしっかり学ぶことで、人類がいかにして人権とか平和とか民主主義というものを勝ち取ってきたか、あるいは、まだどこが不十分なのかという視点を持つ大きな助けにもなる。
そういう世界史の中に日本史を学ぶ、しかも今の現代につながっている部分、どうやって現代につながってきているかをしっかりと認識するというのはものすごく大事で、私は「歴史総合」が主権者教育のベースをなすような教科になると思っているんです。
例えば「ワイマール憲法」という当時では世界で最も民主的な憲法の中から、なぜヒトラーのような独裁者が生まれたのか? こういう愚かなことを日本人だって繰り返さないとは限らないよという、そのことを学ぶってものすごく大事だと思うんです。
それから地理もそうですね。日本地理、世界地理じゃなくて、「地理総合」で世界地理の中の日本地理を学ぶということで、例えば地球大の問題、食料問題、エネルギーの問題、気候変動の問題、こういったものを全体として見る視野ができてくる。
そうした歴史や地理に関する、視野の広い理解をベースに「公共」という教科の中で自らその社会を形成していく、社会の形成者としての資質をつくっていくというのは、ものすごく大事だと思っていて、これは本当にうまくこの教科を使っていただければ、本当にいい主権者教育ができるんじゃないかと思っているんですけれど。一方で、政治の側にはそういう「目覚めた主権者」は困ると言う人もいるわけです。
その人たちはむしろ、目覚めさせないような主権者教育がしたいので、いろいろ、あれしちゃいけない、これしちゃいけないという規制をかけるわけですね。それが2015年に文科省が出した通知に表れているんですけれどもね。これは18歳選挙権が施行される前、2015年の10月に、主権者教育に関する通知を出していますけれども、その通知で文科省は何と言っているかというと、いろいろと生徒にも先生にも制限を加えています。
例えば、生徒に対してはまず「学校の中では政治活動をするな」と。それどころか「学校の外」でも学校が規制できると言っているわけです。僕なんかは「ホントかよ?」と思うんですけどね。だって、高校生には基本的人権があって表現の自由も言論の自由もあるわけじゃないですか。
もちろん、学校の中には一応「施設管理権」があるので、ある程度「ここではこういうことをしないこと」というのがあるのは、仕方ないかもしれないけれど。それでも教育の場だっていうことを考えるのであれば、生徒が主体的に考えたことを表現するって、これは最大限に保障するべきですよ。
ほかの生徒の迷惑になるような方法だったら、一定の規制をかけたらいいとは思うけれど、例えば校庭のどこかで「僕はこう思うんだ」っていうような演説をしていたっていいと思うし、ビラを配ったっていいと思う。学校の中での政治活動というのは、むしろ容認どころか、促進してもいいぐらいだと思うんですよね。
ところが、文科省の通知は、まず教育課程内での政治活動はいっさい禁止。つまり、例えば総合的な時間とか、特別活動の時間に「9条改正反対の署名、みんなやってくれ」というようなことを言ったらダメというわけですね。
それどころか、教育課程外であっても学校の中では規制をしなさいと言っています。さらには、学校の外で行う政治活動についても届け出制にして構わないとかね。そうやって非常に過度に高校生の政治活動を制限しようとしている。
もちろん、教員に対しても「自分の政治的見解を言うな」と言っているんですね。それだけじゃなくて「不用意に影響を与えるな」とも言っています。でも「不用意に影響を与える」って何ですか? 例えば、先生が胸に「9」っていうバッジを付けているだけでも不用意な影響を与えることになるのか? これって非常に萎縮効果があると思うんです。
本当はそんなに気にしないで、客観的に「こういう意見がある。こういう意見もある。君たちはどう考えるか、議論しましょう」と。これでいいんですよ。もちろん「こういう意見」の中には必ず、先生自身の意見だってあるはずですし、そもそも、自分の政治的見解も持っていないような教員には主権者教育などできません。
ちなみに、こうした文科省の姿勢に日本弁護士連合会が批判的な意見書を出しています。その意見書を読むと、ドイツのことが書いてあるんだけど、ドイツには「ボイステルバッハ・コンセンサス」というのがあると言うんですね。
この「ボイステルバッハ・コンセンサス」というのは1970年代に、政治教育のあり方について学者が集まって、一定のガイドラインを作ったんですが、そのガイドラインでは、もちろん、教師は自分の政治的見解を述べて良いということになっている。
ただし、自分の見解だけではなくて、それに反対する見解も同様にきちんと説明して、生徒の自主的な判断に委ねることが大事なんですよと。そういう政治教育についてのあり方、考え方というものを当事者の中で議論して決めた。国が決めたんじゃなくてね、学者たちが集まって決めたコンセンサスなんですよね。これ、1976年ですから、もう40年前の話なんですが、このあたりにも、やっぱりドイツと日本の違いを感じます。
──それは二つの国の「戦後の後始末の仕方」の違いに始まっているんでしょうね。
前川 そうそう。つまり害虫の巣を残しちゃった国と、完全に駆除した、あるいは、それを常に駆除し続けなきゃいけないと思っている人たちとの違い。
それだけの痛恨の歴史を持っている国。