対戦格闘ゲーム「ストリートファイター」で日本人トッププレイヤーを撃破し、プロゲーマーとなった百地裕子は、いよいよ国際大会へと出場することに。そこでは大観衆をわかせるアスリートたちの熱い戦いが繰り広げられていた。プロとして生きるためには“勝つ”しかない。男たちとの戦いの中で、彼女がたどり着いたゲーム論とは?
海外遠征でその熱狂ぶりに驚く
格闘ゲームの海外大会に初めて招待されたのは、シンガポールだった。洋楽や海外ドラマが好きな私は、いつか海外へ行ってみたいと昔から思っていたのだが、まさかゲームがきっかけで海外に行くことになるとは思ってもみなかった。シンガポールにも日本と同じように、格闘ゲームを愛する人たちが大勢いた。サインや写真撮影を求められたり、雑誌の取材やインタビューを受けたり、私はまるで芸能人かのような扱いを受けた。招待してくれた人たちが観光地や地元の名物を案内してくれたりもした。非常に新鮮で、初めての経験だったので、いろいろな意味で戸惑いながらも刺激を受けた。
こうして大変手厚く迎えていただいた初の海外遠征では、ゲーム展示会のようなイベントの一角で大会が開催され、話す言語が違う人たちばかりがいる中で、私はたくさんの試合をした。最初は学生時代の英語力をフル活用せんと、明らかに自覚できるくらいおぼつかない英語で必死の交流を試みたが、ゲームで対戦すれば言葉など不要ですぐに仲よくなることができる、ということを悟った。ただゲームで対戦をすることで、言葉の壁など軽く越えられたのである。
初めての海外大会で感じたことは、日本の大会よりも大きな歓声を上げたり感情を体いっぱいで表現するオーディエンス(観客)が多いということだ。飛び上がって応援する人、倒れこみながら応援する人、応援していたプレイヤーが敗北したことを悔しがる人、皆が自由にゲームを遊び、観戦し、楽しんでいた。「ゲーム大会を観戦することは、言葉の壁を越えたエンターテインメントである」と私が実感したのはその時だ。
そしてその後、アメリカの大会へ招待された。アメリカはシンガポールよりもさらにプレイヤーも熱狂的なファンも多かった。また、大会には現在に比べると小額ながらも、数十万円という大会賞金が賭けられていた。
アメリカとは法的なルールや様式が異なることもあり、日本のゲームセンターでの大会はもちろん賞金は出ないし、当時、日本で開催されていた全国規模の大会でも賞金は数万円と少ないものであったので、その賞金額だけでも非常に驚いた。そしてアメリカでは、強豪プレイヤーが生徒を指導することで稼ぎを得る“塾のような制度”もあると聞いた。当時からすでに、アメリカではゲームを“ビジネスチャンス”として捉えていたのだ。
アメリカ大会の熱気はすさまじいものだった。参加者300人程度の当時としては中規模な大会であったものの、観戦者のほとんどが大声を出して選手を応援していた。招待された日本人選手をアメリカ人選手が倒した際には、会場全体から「USA! USA!」という大合唱が沸き起こり、会場の一体感がとてつもないモノとなった。お気に入りの野球選手を応援するかのような声援が飛びかったり、野次が飛んだり、素晴らしいプレーには全員総立ちで歓声と拍手が巻き起こっていた。世界中の人と、ゲームを通じて喜びの感情を爆発させることのできる素晴らしさを全身で体感した遠征であった。
夫婦二人三脚でプロ生活を送る
うっかり言い忘れていたが、私は当時交際中(現在は夫)だった“ももち”こと百地祐輔と2人同時に同じ北米チームへ所属しプロゲーマーとなった。そうして現在までの約5年間、世界中の格闘ゲーム大会へ参加し、世界大会にも参加し続けてきた。夫は世界トップクラスの腕前をもつプレイヤーであったが、海外の中規模大会で優勝することができてもプロ生活4年目までは“世界大会”というビッグタイトルを獲得できず、とても苦しい期間が続いた。「結果が出なければ解雇される」というプレッシャーと日々闘いつつ、しかも結果だけではなく広告塔としても機能し、スポンサーに貢献しなければならない。夫婦二人三脚で必死で勝つ方法、プロゲーマーとして生きる術を考えていた。
そして試行錯誤を重ねていくうちに、いつしか私が陸上競技に打ち込んでいたころ、母が私にしてくれていたサポートを夫へ生かすことになっていた。私自身の練習も行いながらではあるが、大学で学んだスポーツ学や栄養学も生かし、食事、メンタル、練習サポート、フィジカルケアといったサポートをするようになったのだ。
海外大会は2~3日連続で試合が続くので、体力作りも始め、本格的にスポーツ選手のような生活を始めた。そうしてやってきたプロ生活4年目の冬、夫はついに世界大会優勝の栄誉を獲得した。さらにその翌年の夏の世界大会でも再び頂点に立った。途中でもう辞めようかと二人で話し合ったこともあったプロ生活であったが、諦めずに続けてよかったと心から思えたのはプロ5年目に入ってからだった。
近年、格闘ゲームの世界大会の規模も大きくなってきており、16年の夏に開催された世界大会はボクシングのウエルター級王座統一パッキャオvsメイウェザー戦が行われたラスベガスのマンダレイ・ベイ・コンベンションセンターを使って開催された。
世界大会観戦用1万2000席のチケットは完売。世界中から集まった約1万5000人の選手が大会へ参加し、試合の模様はインターネットで世界中に放送された。またアメリカではテレビのスポーツ専門チャンネル最大手「ESPN」でもその模様が放送された。インターネット放送では、同時視聴者数23万人を記録。ESPNではユニークビューワー数が194万6000人規模に達したそうだ。これは、それなりに多くの世界中の人々に観戦されたこととなる。
会場に集まった1万を超える人々が試合を見つめ、勝負の行方を見守る中繰り出される繊細な駆け引きに息を飲み、手に汗握る攻防に立ち上がって大歓声を上げる。勝者には称賛の嵐――。会場で観戦できない人もインターネット中継を通じて観戦し、SNSで感想を拡散。活躍した選手はインターネットの検索エンジンの検索ランキングでランクインすることはもちろん、つぶやきサイトのトレンドに選手名がランクインしたり、大手ニュースサイトで記事となる。それほどまでの勢いが今のe-sportsの世界大会にはある。
ゲームに人生を賭ける人たち
なぜ、それほどまでにe-sportsが人々を熱狂させるのか。それは映像の中で視覚化された体力ゲージと、「相手を倒せば勝ち」というシンプルなルールにより勝敗がわかりやすいこと。そして何よりキャラクターを操る選手それぞれに個性があり、他のスポーツ同様、彼らの背景にはさまざまなドラマがある。ゲームが人と人をつなぎ、最高の感動や熱狂を生むのである。選手たちは自身の人生の時間の多くを賭け、全身全霊で対戦型ビデオゲームという競技と向き合っている。勝つこと、広めること、届けること、役割や定義がまだまだ定まっておらず、手探りしつつ直感で自身のポジションを模索する日々はいまだに続いているが、自分なりに日々成長を意識し、時代の変化や流れに耳を傾けているつもりだ。
「所詮は遊び」と、多くの日本人が言うであろう「ゲーム」と真摯(しんし)に向き合い、鍛錬と努力を積み重ねた者同士のぶつかり合いは、実際目の当たりにすれば、その魂の輝きを誰しも感じることができるはずだ。私たちはそれだけ「真剣」になっているし、自分たちのやっていることに自信を持っている。これが私の「仕事」だ。
私を夢中にして離さないゲーム。e-sportsという世界。ゲームは遊びであり、コミュニケーションツールである側面、歴史を持ちつつも、その一方で、まさに「スポーツ」と呼べるところまで進化した。私は今、その「ゲーム」一本で生活をする日々を送らせてもらっている。今後の見通しについてはさまざまな意見があるし、確かに不確定な要素もあるかもしれない。でもこんな時代だ、不確定な未来に私は何の不安もない。何かあればそのつど、自分の頭で考え、時代の流れに耳を澄ませ、自分のその時その時の役割を意識し、自分のすべきことを判断するだけだ。
私は常に、ゲームと共にある。対戦格闘ゲームにとどまらず、世界中に存在するゲームとそのプレイヤーたちすべてが、私にとっての可能性であり希望なのだ。この世界中で起きている熱狂を、私はぜひ多くの人に知ってもらいたいと思っている。