第17回開高健ノンフィクション賞受賞作の『聖なるズー』は、「動物との性愛」という衝撃的な事実をテーマとして、今までの常識を揺さぶられるような感覚を読者に与える作品だ。開高健ノンフィクション賞の選考委員を務める法政大学総長の田中優子さんが、京都大学大学院で文化人類学を研究する著者の濱野ちひろさんと「タブーを超えた先」について語り合った。
『聖なるズー』の衝撃
田中 『聖なるズー』は、開高健ノンフィクション賞の選考会の段階では、副題に「動物性愛者、種も暴力も超えるセックス」と付いていましたね。その副題の衝撃がとても大きくて、最初は目を背けたくなるような印象を持ったのですが、読み始めるとすぐに、その印象とはまったく違う作品だということがわかりました。この作品のテーマは、動物性愛を通して、暴力とは何かとか、暴力をどのように自分が乗り越えていくかということなんですね。そして、著者がそうした問いをどのようにたどってきたかという濱野さん自身の旅として読める。
プロローグの冒頭で、濱野さん自身のドメスティック・バイオレンス(DV)の経験が書かれているでしょう? それによって、なぜ濱野さんがこの旅を始めたのかという根本的な動機が明かされていて、とてもよかったと思います。
濱野 ありがとうございます。冒頭のDVのところは読むのがつらいという方もいるみたいなのですが、その経験がズー(動物性愛者)に対する私の見方に影響していますから、どうしても必要不可欠でした。
田中 濱野さんは現在、大学院の研究者ですよね。私も研究者ですからよくわかるのですが、研究者というのは、必ず、その研究をしている理由があるんです。「自分を取り戻したい」とか、「自分をつくりなおしたい」とか、世の中を変えたいとか、いろいろな理由を持っている。だから困難なことにぶつかっても、研究を続けていこうとする。そうした困難に向かう姿勢がよくわかったのは、ドイツ人のズーのミヒャエルに初めて会って話を聞くために、彼の車に乗って彼の家へ行くときの描写です。
濱野 あのときはものすごく怖かったですね(笑)。文化人類学の調査は、基本的に単独で行いますから、私一人で乗り込まなければなりません。初対面でどういう人物なのかもわからない大柄の男性が運転する車の助手席に座って、後部座席には彼の「妻」の大型犬がいる。ドイツの田舎道をずっと走っていたのですが、途中からはグーグルマップでも位置を特定できなくなって……。
田中 そういうスリリングな状況や恐怖感、驚き、とまどいをとても丁寧に書いていらっしゃる。なんだかミステリー小説を読むようにハラハラドキドキして、ついつい最後まで一気に読んでしまう。読み終わってみると、書き手が困難を乗り越えてきた過程の真剣さも身にしみて分かります。実は今回、法政大学の総長として対談を引き受ける際に、当初は事務方である総長室が動物性愛というテーマに難色を示していたんです。そこで秘書に作品を読んでもらったら、一晩で読み終えて、「すごく面白かった」と言っていましたよ。
パーソナリティを発見する旅
濱野 それはうれしいです。この本が出版されたときに、私が本当に伝えたいことをどこまで読者にわかってもらえるのか、正直いうと、まだとても不安なんです。田中先生は、選考会の後で、作品に出てくる「パーソナリティ」という言葉に注目してくださいました。そのことが、とてもうれしかったです。
田中 作品のなかで「キャラクター」と「パーソナリティ」がどう違うかを書いていますね。その比較はとても分かりやすかったです。
濱野 「キャラクター」というのは、それぞれの人間なり、動物なりにくっついている固有の性質で、だれが見ても同じように感じられる特徴のことですが、「パーソナリティ」というのは、相手との関係のなかで生じるようなものだと思っています。例えば、日常会話のなかで「彼ってこんな人だよね」「え、そんなことないよ。彼はこんなところもあって、こんな人だよ」という会話があるとすると、それはおそらくパーソナリティのことを言っているんだと思うんです。つまり、ほかの人との関係とは違う、私と彼との関係のなかで見いだされているものですから。そう考えると、私たちも日常的にパーソナリティの発見をしているはずなんです。
田中 それを、今まで誰も名付けてこなかったということですね。私は、この『聖なるズー』という作品は、パーソナリティの物語だと思ったわけです。最初はお互いに「怪しいな」なんて思いながらも、ズーたちの家に何日も泊まって、ご飯を食べたり、おしゃべりをしたりして一緒に過ごす。そうすると、次第にズーたちに共感するようになって、ズーたちの部屋のなかにある動物の気配のようなものがわかるようになるわけでしょう? 実際に濱野さんが何人ものズーに会っていきながら、彼らのパーソナリティを発見する旅が描かれている。
自分を乗り越える
田中 動物性愛という言葉に、当初、私は暴力を見ていました。つまり、人間とペットには、飼う―飼われるという支配関係があるわけですよね。そういうなかで、性的な関係を持つというのは、やっぱり人間側からの暴力だろうと発想して、その言葉に嫌悪感を持った。