第17回開高健ノンフィクション賞は「動物との性愛」をテーマにした『聖なるズー』が受賞した。前編に引き続き、選考委員を務める法政大学総長の田中優子さんが、京都大学大学院で文化人類学を研究する受賞者の濱野ちひろさんと、受賞作について語り合った。
女性と男性との違い
濱野 『聖なるズー』を書いていたときに、気になっていたのが、男性と女性にとってのセックスの意味の違いでした。私が出会ったズー(動物性愛者)たちは、ほとんどが男性なのですが、「生来的にズーだ」という人の割合が男性はとても高かったんです。ところが、女性は違うんですよね。女性はこの作品では3人しか出てこないのですが、その全員が「あとからズーになっていった」人たちでした。その彼女たちにとってセックスというのは、生殖のためではなく、さらに言えば、性欲を満たすためでもない。そもそも女性の性のあり方と男性の性のあり方がまったく違うから、ズーも一筋縄では理解できないんです。動物との性愛を含めた関係は、男性と女性では、もしかしたら意味が違うのかもしれないとも思っています。この問題はすごく大事なので、本当はもっと詳しく書きたかったのですが、今回は書ききれませんでした。田中先生は、張型(はりかた:江戸時代の女性用性具)など、女性の性の自覚についても書かれていますが、どのようにこの『聖なるズー』のなかの女性たちをお読みなったのか、とても興味があります。
田中 男女の違いというのは、たしかに気になりました。私も何人かゲイの男性たちを知っていますが、「自分は子どもの頃から、男の人が好きだという自覚があった」という人がけっこういます。ところが、そういうことを言う女性には、たしかに会わないですね。ここにもお書きになっている女性たちというのは、最初はそうじゃないけれども、まさに自分で自分を広げていきますよね。「自分が知らない世界がある」ということがわかったときに、そこに近づいていって、そこも自分の世界にしていくという印象がありました。もしかしたら性だけではなくて、女性にとってはコミュニケーションというものが、そもそもそういうものなのかもしれません。つまり、一律のコミュニケーションに閉じこもるということがあまりなくて、新しいものに出合えば、そこでまた新しいコミュニケーションを始めることができる。そういう意味では、女性は、多様性に対してものすごく可能性を持っているとも言える。
濱野 そうなんです。女性たちがとても力強いんですよね。自分を開いて、世界をどんどん広げていっている感じがします。
田中 それから、女性はとても自己肯定感が強い。「人から何を言われようと、自分でそのように信じることができたんだからいいんだ」というところがありますよね。
濱野 そうなんです。私が会った女性は、「こうすることによって、相手が幸せになるのだから、それでいいんだ」というように、自覚して自らズーになっていくんですよね。そこに、生来的にズーだという男性との極めて大きな違いがありました。ただ、今回は3人しか女性に出会えなかったので、その違いを詳しく書けなかったのが心残りです。
田中 それは、別の問題になってしまうのかもしれないですね。例えば、社会規範との関係とかもあると思います。男性が社会規範を重大に考えてそこに閉じこもろうとするのに対して、女性は社会規範をいったん横に置いて自分を広げていこうとする。そういう男女の違いを、私は日常生活のなかでもよく感じることがあります。
濱野 そうですね。そこには、フェミニズムもかかわってくるし、パートナーシップのつくり方とかもかかわってくる。『聖なるズー』では、動物性愛がどういうもので、ズーというのがどういう人たちなのかという、ほんのさわりの部分しか実は描けていないんです。ズーたちの家を転々と寝泊まりしながら調査をしてみて、彼らの実際の生活や動物との関係を通して見えてきた最初の発見を描くことに終始してしまったところがあります。だから、次の1歩をどうするか、今考えているところです。
暴力から立ち直るために
田中 やっぱり、濱野さんは次も発見の旅になりそうですね。そこで何に向かって発見していくのかっていうところが気になります。今回、自身の過去の暴力についての体験を表明したことによって、そこから何かをつくりなおそうとしたということがあると思います。この作品を書き終えたことで、それは自分のなかでもう終わっているんですか?
濱野 いや、まだ終わってはいないと思います。ただ、私は過去の苦しみを20年、反芻しながら生きてきたのですが、この作品を書き終わったときに、何というか、9割くらいは傷が治癒したような感じがしたんです。残りの大部分は、おそらく、これから自分が社会に発信することによって癒やされていくのではないかと思います。今後、具体的に政治的な活動をするというわけではないですが、論文であれノンフィクションであれ、文章を書くことが私の仕事ですから、暴力については今後も考えを進めて、書いていきたいと思っています。そうでないと、なかなか傷は治せないと思います。