ところが自民党の条文案は「人口を基本とし」としながらも、一方で「行政区画、地域的な一体性、地勢等を総合的に勘案して、選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数を定めるものとする」と例外を自由に設けることで、「人口比例」の考え方を否定することが可能な内容になっている。これは明らかに「一票の格差」を是正するのではなく、逆に格差の存在する現状を「憲法改正で追認してしまおう」という考え方です。
それどころか、参議院については「全部又は一部の選挙について、広域の地方公共団体のそれぞれの区域を選挙区とする場合には、改選ごとに各選挙区において少なくとも一人を選挙すべきものとすることができる」と、本来「国民の代表」であるはずの参議院議員が、あたかも「地方の代表」であるかのような発想に基づいています。
それではなぜ、自民党はこのような条文案を、党を挙げて支持するのかということですが、これはハッキリ言えば「党利党略」「私利私欲」でしかありません。47条の改正案が一般には「合区解消案」と言われているように、自民党は人口比例の考え方に基づく「合区」によって生まれた都道府県にまたがる選挙区を解消することで、都道府県ごとにある党の「県連」という組織を守り、これまで通り、地域の利権と強く結びついた自民党議員を地方から送り出したい。そうした党利党略のみのために、こうした条文案を作ったのだと思います。
──ただし、特に参議院については、そもそもの存在意義や「二院制の役割」についての議論もありますし、「単純な人口比率だけで『一票の平等』を実現した場合、人口減少が続く『地方』の声が十分に国政に反映されなくなる」という自民党の主張には、一定の合理性もあるようにも思えます。アメリカでも上院議員は人口比例ではなくて、各州からそれぞれ2名ずつを選出する形をとっていますし「参政権の平等」にはいろいろな考え方があるのでは?
伊藤 確かにドイツのような連邦制や、今、お話に出たアメリカのように「地方の代表」が選出されて議会を構成するという仕組みの国も存在します。また、参議院の意義についてのさまざまな意見があるのも事実でしょう。
しかし、どのような考え方に基づいて憲法を改正しようとしても、それ以前に「二院制の役割とは何か」という国民的な議論がしっかりとなされていることが大前提です。例えば、アメリカのようにそれぞれの州ごとに州法があり、最高裁判所があり、それどころか「州の軍隊」まで持つというように、地方に対して独立した強い権限を与えている国と日本とを単純に比較して議論すべきではありません。
また、「人口比率だけで一票の格差を考えては、地方の声が国政に反映されなくなる」という自民党の主張は一見、説得力があるように見えますが、現実に「一票の格差」の実態を見てみると、例えば、2016年参院選で見た場合、選挙区における議席ひとつあたりの人口で福井県を1とすると、一票の重みが最も軽いと言われる埼玉が0.326票なのに対して、2位の新潟や3位の宮城もそれぞれ0.335票、0.338票と、必ずしも「都市部と地方」の問題というわけではないのです。
地方分権をもっと進めてゆくという議論の過程の中で、初めて、参議院の役割の見直しや、その役割に見合った選挙制度についての議論があるべきで、それを全部すっ飛ばしていきなり憲法改正を行うなどもってのほかです。
もちろん「一票の格差」を完全になくすことが簡単ではないのは事実ですが、たとえ、現実が憲法が定めた「あるべき姿」と違っても、そこに近づいていく努力をすべきであり、そうした努力を否定する形で現状を追認し、今の自民党に都合のいい形に憲法を書き換えてしまうというのは、憲法の意義、立憲主義に対する冒涜(ぼうとく)にほかなりません。
「教育の充実」:そもそも教育は「個人」のためであって「国の未来」のためではない
──一方、昨年(2017年)秋の解散総選挙でも安倍内閣が「公約」として掲げた「教育無償化」については、「無償化」という立派な看板とは裏腹に、「教育を受ける権利と受けさせる義務」について定めた憲法26条の1項、2項はそのままに、新たに3項を設けて「(国は)各個人の経済的理由にかかわらず教育を受ける機会を確保することを含め、教育環境の整備に努めなければならない」という、いかにも具体性に欠ける「努力義務規定」が置かれる形になっています。
維新の会が求めていた「経済的理由によって教育を受ける機会を奪われない」という文言は見送られ、この改憲案の何が「教育無償化」なのかという疑問もあるのですが……。
伊藤 これはもう、昨年の選挙公約で「教育無償化」を打ち出したことへの「単なる辻褄合わせ」でしかないでしょうね。あとは、改憲に協力してほしい「維新」への配慮でしょうか?
とはいえ、民主党政権時代に実現した「高校無償化」にすら反対した自民党ですから、党内には財政への負担が大きい大学など、高等教育の「無償化」には反対論も根強い。その結果、これも2012年の憲法改正草案に沿った形で何ら具体性のない条文を追加するだけで「教育無償化」という公約とは程遠い内容に落ち着きそうな様子です。
しかし、現行の憲法26条1項では「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とすでに記されていますから、この権利を保障するために国が教育環境を整備する義務を負うのは、ある意味、当然のことであり、高等教育の無償化について具体的に触れないまま、国の教育環境整備に関する努力義務を示す3項を追加することは、「無償化」に関して何ら本質的な意味はないのです。
では、なぜ自民党は2012年の憲法改正草案でも「国は、教育が……国の未来を切り拓く上で極めて重要な役割を担うものであることに鑑み……教育環境の整備に努めなければならない」という、憲法26条3項の追加にこだわっているのでしょうか? それは、この条文案の中に自民党の「教育」、特に「公教育」に対する基本的な姿勢が込められているからです。
この条文案でも「教育」が「国の未来を切り拓く上で極めて重要な役割を担うもの」として規定されている。つまり、ここでも「国の未来」が教育の目的とされ、それが、国が「教育環境の整備に努めなければならない」理由になっている点に注目すべきです。
また、この条文案で、「国」が主体として努めなければならないとしている「教育環境の整備」とは具体的に何を指すのかというのも重要なポイントです。必要な学校を作り、それを維持・管理するといった、単に物質的な環境整備だけでなく、何を、どのように学ぶのかといった具体的な学習内容、カリキュラムの整備や、学校運営の仕組みなどを含めて「教育環境の整備」だと考えれば、この条文はそれらすべての「主体」が「国」なのだと憲法に明記することで、教育環境全般に対する国の立場を強化することに繋がりかねないと思います。
そもそも「教育」とは何のためにあるのか、「公教育」の目的とは何なのかと言えば、それは本来、「個人」の幸せのため、一人ひとりが「生きていく力」を備えるためにある……という考え方であったはずです。