11月に投開票を控え、2024年アメリカ大統領選が佳境に差し掛かっている。現職の副大統領であるカマラ・ハリスが、ジョー・バイデン大統領にかわり民主党の大統領候補となったことで、若年層の有権者も活気づいた。アメリカのマジョリティである「白人男性」代表のドナルド・トランプと、「女性」「移民」「有色人種」など複数のマイノリティ性をあわせもつカマラ・ハリス。アメリカの今昔を象徴するような対決を、アメリカ在住のエッセイストである渡辺由佳里さんが分析する。
ハリスVSトランプ、直接対決の勝者は?
2024年7月、現職のジョー・バイデン大統領が大統領選挙から撤退した時から、アメリカ国民だけでなく世界中の人々が心待ちにしていたのがカマラ・ハリス副大統領対ドナルド・トランプ元大統領の大統領候補ディベート(討論会)である。6月のディベートでバイデンの「老化」を際立たせたトランプのパフォーマンスに満足した支持者は、彼が同じようにハリスをやりこめるのを期待し、一方で民主党支持者とアンチ・トランプの人々は、ハリスが公の舞台でトランプの弱さを暴露することを楽しみにしていた。
皆が首を長くして待っていたそのディベートが、ようやく9月10日の夜(現地時間)に行われた。その結果は、よほど強固なトランプ支持者ではないかぎりは誰が見てもハリスの勝利であった。直後のCNNの世論調査でも63% がハリスのほうが良いパフォーマンスを行ったと答えている。
ディベートでは最初に候補者がステージの左右の異なる袖から現れてそれぞれの演台に立つ。トランプとハリスは、意外なことにこの時点まで公式の場で会ったことがなかったという。ハリスは袖から現れるとすぐさまステージを横切ってトランプに近寄り、手を差し出した。思わず手を出して結果的に握手を交わすことになったトランプに、ハリスは「カマラ・ハリスです」とはっきりした声で自己紹介をした。これは「この場を取り仕切るのは私ですよ」と相手(と聴衆)に知らしめる「パワームーブ」という行為であった。トランプはディベートが始まる前からハリスの手中に落ちたわけである。
トランプは政策アドバイザーからの指示に従っていたのか、開始直後は落ち着いた様子だった。しかし、最初の質問から横道にそれ、その後はハリスの挑発に乗って急速に冷静さを失っていった。怒りの表情をあらわにし、ABC放送局の司会者2人が質問しても、無関係のことをとりとめのない口調で喋り続ける。私はライブで見ながら思いついたことをノートに書き留めていたのだが、見返してみるとトランプの印象は「angry(怒っている)、rattled(動揺している)、deranged(錯乱している)」というものだった。
トランプは追い詰められて余裕を失うと、普通の人なら思いつかないような奇妙なことを口にして誰かを批判したり、攻撃したりする癖がある。この夜もそうで、移民に寛容な民主党の政策を批判するために「(移民が増えている)オハイオ州スプリングフィールドで、(移民が)犬や猫を食べている」と根拠がないネット上の噂を突然言い出した。また、「(ハリスが副大統領候補として選んだミネソタ州知事のティム・ワルツは)妊娠9カ月目の中絶をまったく問題ないと思っているし、誕生後に赤ちゃんを処刑してもいいと言っている」と突拍子もない嘘を早口でまくしたて、女性司会者から「誕生後の赤ちゃんを殺害することが合法な州はこの国にはありません」とピシャリと訂正された。
元「敏腕検事」ハリスの腕前
ハリスがトランプを追い詰める様子をみていた私は、「さすが元検事」と感心していた。トランプと自分をわかりやすく定義づけして視聴者の記憶にしっかりと植え付けたのも有能な検事らしさだ。
アメリカの陪審員制度では、訴訟の当事者の主張や証拠を検討して陪審員が評決を下す。裁判官の管理下で検察官と弁護士がそれぞれの証人を尋問して有罪か無罪かを陪審員にアピールするのだが、ハリスがトランプに対して行ったのは弁護側の証人が信用できない人物であることを暴露する時の尋問そのものだった。ABC放送局の司会者は裁判官で、有権者が陪審員というイメージだ。
陪審員は一般国民からランダムに選ばれるので、社会的、経済的な立場や学歴が異なる。ゆえに、検察官も弁護士も、あらゆる学力レベルの人に理解できるように説明し、彼らを説得するスキルを鍛える。ハリスは、トランプと自分との違いを「過去」対「未来」、「分断を煽る候補」対「連帯を呼びかける候補」、「他人の誹謗中傷ばかりする候補」対「実際に国民のためになる政策を語る候補」、「世界の独裁者が好きで、自分も独裁者になりたがっている候補」対「国民全員のために働く候補」と簡潔かつ明瞭にまとめ、「トランプは大統領の器ではない(大統領にふさわしい気質ではない)」、「(アメリカ国民は)もっと良い大統領をもつ価値がある」とアピールした。
そんなハリスに対して、トランプは自分の長所をアピールすることができず、「移民が犬猫を食べている」「赤ちゃんの処刑」といったとんでもない発言の記憶だけを残した。
カマラ・ハリスはどんな人?
副大統領としてはあまり表に出てこなかったので、日本ではハリスが検事だったことを含めて彼女の背景を知る人は少ないかもしれない。
ハリスの両親はどちらも大学院に入学するために渡米してきた移民で、ジャマイカ出身の父親は後にスタンフォード大学の経済学教授、インド出身の母親(故人)は乳がん専門の研究者になった。彼らはハリスが若い頃に離婚し、ハリスと妹のマヤはシングルマザーとなった母に育てられた。ハリスは「アフリカ系アメリカ人のハーバード大学」と呼ばれる全米屈指の歴史的黒人大学であるハワード大学で政治学を学び、その後、カリフォルニア大学ヘイスティングス法科大学院で法律を学んで弁護士の資格を取った。
歴史的黒人大学
Historically Black Colleges and Universities(HBCU)。19世紀後半のアメリカで、大学への入学を禁止されていた黒人学生が高等教育を受けることのできる場として創設された大学のこと。最初期の歴史的黒人大学は南北戦争(1861~1865年)が始まる前にアメリカ北部で創設された(1854年創立、ペンシルバニア州のリンカーン大学など)。南北戦争後はアメリカ南部で数多く創設され、現在でも全米に約100校が存在する。
2016年大統領選挙での「ロシア疑惑」
2016年にドナルド・トランプ氏が勝利したアメリカ大統領選挙において、ロシアがトランプ陣営と共謀してサイバー攻撃などに関与し、選挙結果に影響を与えたのではないかとされた疑惑のこと。最終的には2019年に、トランプ氏またはトランプ陣営がロシアと共謀した証拠はないとする報告書が提出された。
有罪判決を受けた犯罪者のトランプ
ドナルド・トランプ前米大統領は、不倫関係にあった相手に対し、2016年の大統領選直前に口止め料を支払い、この支払いを隠蔽するために業務記録を改ざんしたという疑惑で、2024年3月にニューヨーク地裁に起訴された。2024年5月30日、同地裁は、トランプ前大統領に対し、公職選挙法違反など34件の罪状について有罪という評決を下した。アメリカ大統領経験者が刑事裁判で有罪とされたのは史上初。量刑は大統領選後の11月26日に言い渡される予定となっている。
「ロー対ウェイド判決」
テキサス州の妊娠中の女性〈ジェーン・ローという仮名を使用〉が、ウェイド地方検事に対して起こした裁判の判決。原告は、母体の生命を保護するために必要な場合を除き、中絶を禁止するというテキサスの州法が、女性の権利を侵害していると訴えた。1973年に下された最高裁判決では、女性が中絶するかどうかを決める権利は、憲法で保障されたプライバシー権の一部であるとし、胎児が子宮の外でも生きられるようになる妊娠後期より前であれば、中絶の権利が認められるとした。この判決により、妊娠初期の中絶は全面的に、中期は限定的ではあるが認められた。
全米家族計画連盟(Planned Parenthood Federation of America、PPFA)
20世紀初期のアメリカで産児制限や性教育を啓発するために活動したマーガレット・サンガーが、1916年に創設した団体。中絶の権利に賛同する「プロチョイス」派の団体で、人工妊娠中絶手術や経口避妊薬などの提供、性感染症の予防、性教育の普及といった活動をしている。