有名な弁護士事務所に勤務するほうが収入ははるかに高いのだが、社会活動家でもあった母の影響を受けたハリスは検察官をキャリアに選んだ。40歳で地方検事になり、46歳の時に選挙で共和党の対立候補を僅差で破り、女性として、黒人として、インド系として初めてカリフォルニア州司法長官に就任するという快挙を達成した。そして、トランプ大統領が誕生した2016年11月の選挙でカリフォルニア州選出の上院議員になったのである。
新人上院議員であるハリスにアメリカ国民が注目するようになったのは、2016年大統領選挙での「ロシア疑惑」に関する2017年の上院司法委員会でのことだ。トランプを早くから支持した報奨として司法長官に任命されたジェフ・セッションズに対し、疑惑を鋭く追及するハリスの勇姿が多くの視聴者を魅了した。
その翌年には、トランプから連邦最高裁判事に指名されたブレット・カバノーが過去に性暴力をふるった疑惑が浮上し、被害者の女性の一人が公聴会で勇敢に証言するという大きな出来事があった。感情的に自己弁護するカバノーを冷静かつ厳しく追及するハリスは、被害者と同様の体験をもつ女性たちにとってヒーロー的存在になり、トランプにとっては「目の上のたんこぶ」的存在になったのである。
共和党副大統領候補、J・D・ヴァンスの失言
ハリスは友人の紹介で出会ったダグ・エムホフと2014年に結婚するまで独身でキャリア一筋だった。自分では子どもを産んでいないが、エムホフと前妻との間にできた子どもたち2人から「ママラ(ママとカマラを合わせたニックネーム)」と呼ばれる親しい関係を築いている。
トランプが選んだ副大統領候補のJ・D・ヴァンスは、そういう背景をもつハリスと民主党を批判するために「キャット・レディ(多くの猫と暮らす孤独な独身女性)」という表現を使った。2021年にテレビ番組で、(暗に副大統領であるハリスのことを指し)「自分の人生や選択において不幸な、子どもがいないキャット・レディたちがこの国を率いている」「(自分たちが惨めだから)他の人々も惨めにしたがっている」と語った映像が最近になって浮上してきた。
2023年に弁護士からオハイオ州選出の連邦上院議員になったヴァンスは、2016年にアメリカで刊行された『ヒルビリー・エレジー』(邦訳は関根光宏・山田文訳、2017年、光文社)という回想録の作者として有名である。この本の中で、彼は法科大学院の修了式で、リベラル寄りとして知られるソニア・ソトマイヨール最高裁判事がスピーチしたことを紹介しているし、「オバマやブッシュや企業を非難することをやめ、事態を改善するために自分たちに何ができるのか、自問自答することからすべてが始まる」と書いている。本の内容からは中道思想であることが感じられる。ヴァンスの妻も最近までは民主党員だった。
そんな背景をもつヴァンスなのに、2023年の上院議員選では共和党から出馬した。現在は、民主党のリベラルな思想のせいで「結婚して子どもを産み、夫のために尽くす」という伝統的な女性の役割が失われていることを嘆き、「古き良き時代」に戻すべきだと主張するようになっている。ヴァンスがイェール大学の法科大学院で出会った妻のウーシャの両親はインドからの移民であり、ウーシャ自身が非常に有能な民事訴訟専門の弁護士である。そんなヴァンスが「女は結婚して子どもを産んだら家庭にこもるべき」と主張するのも、「オハイオ州でハイチからの不法移民がペットを誘拐して食べている」という根も葉もない噂をSNSに流して移民に対する悪感情を掻き立てているのも理屈にあわない。だが、彼が政治的野望のために信念をもつことそのものをやめたと考えると納得できる。
とはいえ、キャット・レディ発言でヴァンスに賛同する人はほぼ皆無で、「子どもが欲しくてもできない人もいる」「養子であっても自分で産んだのと同じ我が子だ」といった反発が多かった。そして、「私も独身のキャット・レディだけどハッピーですよ」といったユーモアある反論がソーシャルメディアを駆け巡ってハリスは支持者を増やし、「キャット・レディ」は流行語になった。
ハリスとトランプのディベート直後、テイラー・スウィフトは愛猫と一緒の写真を使ってインスタグラムでハリス支持を公表した。この時、「With love and hope, Taylor Swift Childless Cat Lady(愛と希望をこめて、テイラー・スウィフト 子どもがいないキャット・レディ)」と締めくくったことには、こういった背景がある。
ハリスは勝利できるのだろうか?
スウィフトのハリス支持は多くの人がすでに予測していたことだが、リベラルだけでなくジョージ・W・ブッシュ元大統領の副大統領を務めたディック・チェイニーなど古い共和党の重鎮たち、そして過去にトランプのもとで働いた人々も最近になってハリス支持を公表している。
ここまで読んだ人は「ハリス勝利は明らか」と思うかもしれない。しかし、私の周囲のハリス支持者の中で安心している人は皆無である。彼らはトランプが勝つ可能性を信じているし、恐れている。それは2016年に大勝を期待されていたヒラリー・クリントンがトランプに敗れた大統領選挙を覚えているからだ。
トランプとハリスが男性候補同士の対決であったなら、恐らく「トランプには勝ち目がない」ということで多くの人の意見が一致したことであろう。けれども、テイラー・スウィフトもそうだと思うのだが、男性社会で長年働いた女性なら、トランプやヴァンスのような男性が実際には自分より昇進するし、トップに立つことをよく知っている。トランプのように自分の間違いを指摘されると怒り、怒鳴り、個人攻撃をするタイプの上司には、女性でなくとも誰もが見覚えがあると思う。部下が素晴らしい業績を上げたら自分の手柄にし、自分の失敗は部下のせいにする(ディベートで2021年の米議事堂襲撃事件での責任を質問された時、トランプは他人のせいにした)。そんな上司など誰ももちたくないはずなのに、なぜかそういった上司に媚びてしまう人が多いのも事実である。
歴史的黒人大学
Historically Black Colleges and Universities(HBCU)。19世紀後半のアメリカで、大学への入学を禁止されていた黒人学生が高等教育を受けることのできる場として創設された大学のこと。最初期の歴史的黒人大学は南北戦争(1861~1865年)が始まる前にアメリカ北部で創設された(1854年創立、ペンシルバニア州のリンカーン大学など)。南北戦争後はアメリカ南部で数多く創設され、現在でも全米に約100校が存在する。
2016年大統領選挙での「ロシア疑惑」
2016年にドナルド・トランプ氏が勝利したアメリカ大統領選挙において、ロシアがトランプ陣営と共謀してサイバー攻撃などに関与し、選挙結果に影響を与えたのではないかとされた疑惑のこと。最終的には2019年に、トランプ氏またはトランプ陣営がロシアと共謀した証拠はないとする報告書が提出された。
有罪判決を受けた犯罪者のトランプ
ドナルド・トランプ前米大統領は、不倫関係にあった相手に対し、2016年の大統領選直前に口止め料を支払い、この支払いを隠蔽するために業務記録を改ざんしたという疑惑で、2024年3月にニューヨーク地裁に起訴された。2024年5月30日、同地裁は、トランプ前大統領に対し、公職選挙法違反など34件の罪状について有罪という評決を下した。アメリカ大統領経験者が刑事裁判で有罪とされたのは史上初。量刑は大統領選後の11月26日に言い渡される予定となっている。
「ロー対ウェイド判決」
テキサス州の妊娠中の女性〈ジェーン・ローという仮名を使用〉が、ウェイド地方検事に対して起こした裁判の判決。原告は、母体の生命を保護するために必要な場合を除き、中絶を禁止するというテキサスの州法が、女性の権利を侵害していると訴えた。1973年に下された最高裁判決では、女性が中絶するかどうかを決める権利は、憲法で保障されたプライバシー権の一部であるとし、胎児が子宮の外でも生きられるようになる妊娠後期より前であれば、中絶の権利が認められるとした。この判決により、妊娠初期の中絶は全面的に、中期は限定的ではあるが認められた。
全米家族計画連盟(Planned Parenthood Federation of America、PPFA)
20世紀初期のアメリカで産児制限や性教育を啓発するために活動したマーガレット・サンガーが、1916年に創設した団体。中絶の権利に賛同する「プロチョイス」派の団体で、人工妊娠中絶手術や経口避妊薬などの提供、性感染症の予防、性教育の普及といった活動をしている。