しかし、1965年の「PUB9」になると、「経済的及び社会的な考慮を計算に入れたうえ、全ての線量を容易に達成できる限り低く保つべき」(*2)と変わってくる。放射線への国際批判に抗すべく、原子力推進派の意に沿うように、放射線によるリスクよりも、経済的、社会的な利益(ベネフィット)を強調する〈リスク-ベネフィット論〉を導入した。また、「PUB9」では、「公衆の構成員」(一般人)と「放射線作業員」の被曝限度を分けた。一般人の線量上限は年間5ミリシーベルトのままだが、被曝と引き換えに「経済的」な利益(収入)を得る放射線作業員の許容線量は、年間50ミリシーベルト(一般人の10倍)とされた。
原子力が核兵器から原発にシフトし、反原発運動の高まりが見られた70年代後半、ICRP勧告はさらに変質していく。それが、1977年勧告「PUB26」だ。
「放射線防護は、個人、その子孫および人類全体の防護に関係するものであるが、同時に放射線被曝を結果として生ずるかも知れない必要な諸活動も許されている」(*3)
「PUB26」の冒頭に書かれているこの言葉は、「PUB1」に言う「不必要な被ばくは全て避けること」の全否定である。「放射線被曝を結果として生ずる」事故が起きるかもしれなくても、「必要な諸活動」(原発稼働を含む)は「許されている」と言うのだから、これは「住民の生命や健康より、原子力産業の活動を優先する」と宣言していることに等しい。
「PUB26」では、被曝線量に関し、「PUB9」の「全ての線量を容易に達成できる限り低く保つべき」から、「避けえない被ばくはどれも合理的に達成できるかぎり低く保つ」(*4)という文言に変更された。この「合理的に達成できるかぎり低く」(As Low As Reasonably Available:ARALA)」は、ICRPの放射線防護の基本となり、「アラーラ(ALARA)の原則」と呼ばれて現在も生きている。クセものは、「合理的に」(reasonably)という言葉だ。これは「科学」とは相容れない、極めてあいまいかつ恣意的な表現と言わざるを得ない。
1986年に起きたチェルノブイリ原発事故後に出された1990年勧告「PUB60」では、さすがに被曝の限度値が年間5ミリシーベルトから1ミリシーベルトに引き下げられた。しかしチェルノブイリ事故では、業務に付随する被曝と引き換えに経済的な利益を保障されていた原発作業員だけではなく、一般住民までもが多数被曝する事態となったためか、線量限度の記述には「合理的に達成可能なかぎり低く」を維持したうえで「経済的及び社会的要因」(*5)が再び盛り込まれた。
このように、ICRP勧告は、原子力を巡る情勢に合わせて「言説を変質させてきた」ことがよくわかる。それは放射線被曝を過小評価し、可能な限り正当化し、「経済的及び社会的要因」のためならば被曝を受忍せよと、「科学」の名の下に私たちに迫る通達なのだ。
事故後の福島に適用された放射線基準
そして2011年、福島第一原発事故が起きた。事故後に日本政府が依拠したのが、ICRP2007年勧告「PUB103」だ。07年勧告の大きな特徴は、「計画」(平常時)、「現存」(事故後)、「緊急時」(事故発生時)の3つの被曝状況を設定し、それぞれに応じて被曝管理をするという転換を図ったことだ。ただ、これら3つの状況を設定した理由について、勧告では何も説明がない。
「計画被曝状況」では年間1ミリシーベルトのままだが、「現存被曝状況」では1~20ミリシーベルト、「緊急時被曝状況」では20~100ミリシーベルトという「参考レベル」(目安となる線量)が設定された。ひとたび大事故が起これば、住民には最大で平常時の100倍もの高線量の被曝が許容されるのだ。
原発事故後の福島は、「現存被曝状況」とみなされた。ゆえに年1~20ミリシーベルトという値を参考にした結果、避難基準を上限値の20ミリシーベルトに設定。それ以下であれば、避難の必要はないとされた。平常時の「計画被曝状況」では年間1ミリシーベルトであるのに、12年経った今も福島県では住民に年間20ミリシーベルト、つまり平常時の20倍という著しく高い基準が変わらず採用されており、その基準値を根拠に帰還困難区域の解除が進められている。
ICRPは福島第一原発事故後、福島県でさまざまなアプローチを行った。その一つが、ICRPにとって「放射線防護政策の優等生」となった伊達市で行われた一連の政策だ。「必要がない」という理由で除染をしない区域を作り、全市民に1年間、個人線量計を装着させた。さらにそのデータをもとに、被曝を過小評価し、除染の効果に疑問を呈する国際的学術論文を御用学者に作成させた。詳細は、拙著『心の除染 原発推進派の実験都市・福島県伊達市』(2020年、集英社文庫)をご覧いただきたい。
そしてもう一つ、ICRPが福島県で行ってきたのが、他ならぬ市民運動を「作る」ことだった。それも、被災者が被曝を受け入れるように誘導する市民運動である。
(*1)
松田文夫『ICRP勧告批判』(2022年、吉岡書店)P11
(*2)
中川保雄『放射線被曝の歴史』(2011年、明石書店)P123
(*3)
中川保雄『放射線被曝の歴史』P154
(*4)
松田文夫『ICRP勧告批判』P13
(*5)
松田文夫『ICRP勧告批判』P14