目取真 そうですね。越地(こえち)という字(あざ)が今帰仁にあります。そこに祖父母たちは避難していて、子どもの頃に祖母から聞いた話では、越地の海岸に日本兵が2回漂着していたそうです。珊瑚礁に引っかかってうつ伏せの状態で、白いマフラーが波に揺れていたのが印象に残ったようです。五体満足で流れ着く遺体はほとんどない。墜落する際に肉体は破損し、サメや魚に食われたりして、首がない、手足がないのが当たり前なんです。実際の死は残酷で、「散華」はその事実を覆い隠す言葉なんです。「玉砕」もそうです。部隊が全滅して、死屍累累(ししるいるい)と無惨な姿をさらし悪臭を放っている。それを「玉砕ける」という修辞で美しく語る。つらく、悲惨な現実から目をそむけるまやかしです。
――「敵艦に突入する特攻作戦も行われ、二八〇〇人以上の特攻隊員が散華しました」という記述はこの死の惨さを覆い隠していると。
目取真 この教科書は戦争を美化する表現で貫かれている。「散華」という言葉で、沖縄で戦死した人たちの実際の姿から目をそむけているんです。初期の特攻隊員は、敷島隊(※3)の関隊長のように実戦経験豊かな航空隊員たちだった。ところが、末期になると、まともに訓練を受けていない少年兵たちを乗せていった。しかも、飛行機不足で練習機まで使っている。「白菊特攻隊」(※4)というのがありましたが、時速200キロくらいしか出ない練習機に若者を乗せている。米軍機は簡単に撃墜するんです。こんな無謀な作戦を実行した愚劣さについて、この教科書は触れないし、反省もない。
「志願」の真相
――学徒隊について、「中学生から高校生の男女二三〇〇人以上が、志願というかたちで学徒隊に編入」とありますが、目取真さんのお父さんは鉄血勤皇隊にいたわけですから、当時の実情もよく聞かれていたと思います。どうだったのでしょう。
目取真 最近出版された『沖縄県知事 島田叡と沖縄戦』(川満彰・林博史著、沖縄タイムス社、2024年)という本があります。島田叡(しまだ・あきら)は戦争当時の沖縄県知事です。島民に「生きろ」と言ったと美化されていますが、実相はどうだったか。史料を踏まえて検証している本です。
この本では沖縄戦における「志願」の中身も検証されています。17歳以下は正規兵として召集を受けないはずが、沖縄戦では14歳の中学生まで動員される。私の父は昭和5年9月生まれで、当時14歳でしたが、家に帰って親の許可を得るように言われています。私の祖母は父に「お前が行っても行かなくても、何も(状況は)変わらないから、家にいときなさい」と言って止めたそうです。ところが、父は「お母さんみたいな人がいるから、日本は戦争に負けるんだ」と言って反発し、鉄血勤皇隊に参加している。そのことを、親の許可を得て「志願」したと強調しているわけです。しかし、実際には島田知事が中学生たちの名簿を軍に渡し、軍も組織的に鉄血勤皇隊の訓練や防衛召集を準備しているわけです。沖縄戦は兵力不足のため、少年から老人まで男たちは駆り出され、鉄血勤皇隊や護郷隊(※5)、防衛隊などに組織化され、日本軍に組み込まれていった。
この(令和書籍版)教科書を使用するのは、当時の少年兵と同世代の中学生ですから、「昔は君たちと同じ年齢の14~15歳の中学生たちが、国を守るために自ら願い出て命を懸けて戦った」と主張するための記述です。当時の中学生たちは、生まれた時から軍国主義教育を叩きこまれ、天皇陛下のために死ぬんだ、と思っていたでしょう。しかし、彼らが戦場で見た現実は、想像を絶していた。多くの少年たちが無残な死に方をしたわけです。そのことは記述されない。
――お父さんはどのような任務を遂行されていたのでしょう。
目取真 沖縄島の北部・本部(もとぶ)半島の八重岳で戦った父は、小銃が重くて木の股や石に載せて撃ったといいます。日本の小銃は一発撃つごとに薬莢(やっきょう)を出さないといけない。しかし、下から攻めてくる米軍はパラパラと連続して撃ってくる。とても勝てない、と思ったといいます。また、擲弾筒(てきだんとう)を使って攻撃していた時、一緒にいた上原上等兵という方が目の前で射殺され、自分は米軍の一斉射撃の中を走って逃げたとも話していました。
――内地出身の大人の日本兵の中に、沖縄の中学生がいきなり放り込まれての実戦はかなりの苦役であったことはいくつかの文章でも散見されます。
実相
「実相」1実際のありさま。ありのままの姿。2仏語。真実の本性。『デジタル大辞泉』より一部引用)。
(※1)
太平洋戦争末期の沖縄で、戦闘要員として動員された14~17歳の男子中学生による学徒隊。
(※2)
1920年石垣島生まれ。陸軍予科士官学校卒業。1945年2月に特攻隊の一つである誠第17飛行隊の隊長に任命され、同年3月26日、沖縄戦最初の特攻隊員として石垣島から出撃。慶良間諸島沖でアメリカ軍艦隊に突入し死亡した。
(※3)
1944年10月、フィリピン・ルソン島で大日本帝国海軍によって編成された「神風特別攻撃隊」の一つ。関行雄隊長(海軍兵学校出身の艦上爆撃機パイロット)が率いる敷島隊は、同月25日に零式艦上戦闘機(通称零戦)に250キロの爆弾を搭載して出撃。レイテ島沖でアメリカの空母群に体当たり攻撃をし、空母1隻を沈没させて、特攻攻撃による初の戦果をもたらした。
(※4)
白菊特別攻撃隊。沖縄戦での特攻作戦のため、1945年4月に徳島県の海軍航空基地で、徳島海軍航空隊の隊員など約250人を集めて編成された。鹿児島県の串良海軍航空基地に場所を移し、同年5月24日、偵察員を育成する低速練習機「白菊」に500キロの爆弾を搭載して初出撃。同年6月にかけ、5回に分けて95人が出撃し、56人が死亡した。
(※5)
沖縄本島で1944~1945年にかけ、15~18歳の少年1000人超を集めて結成された遊撃部隊。スパイ養成機関とも言われた陸軍中野学校の出身者が中心となり、第一護郷隊、第二護郷隊の2部隊を編成した。地上戦が始まるとゲリラ戦に投入され、第一護郷隊は多野岳や名護岳、第二護郷隊は恩納岳に布陣して作戦に従事。隊員の約160人が死亡した。
(※6)
1944年10月10日アメリカ軍が南西諸島に対して行った大規模空襲。早朝から夕方まで9時間近くにわたり、のべ1400機近くが総量540トン以上の爆弾を投下した。那覇市街地の9割近くが消失したのをはじめ、各地が壊滅的な被害を受けた。民間人の死者は300人以上とも言われる。
(※7)
沖縄県の名護市と宜野座村にまたがる米軍基地。久志岳を中心とする山岳・森林地帯のシュワブ訓練地区と、辺野古の海岸地域にあるキャンプ地区からなる。総面積は約20.63平方キロメートルで名護市の面積の約10%にあたる。
(※8)
渡嘉敷島の陸軍海上挺進戦隊第3戦隊戦隊長であった赤松嘉次(あかまつ・よしつぐ)大尉のこと。渡嘉敷島住民の強制集団死(いわゆる「集団自決」)への関与は、裁判(2005年に提訴され、2011年に判決が下された通称「大江・岩波裁判」)を通じ事実として認定された。
(※9)
沖縄で地上戦が始まった後、多数の民間人が戦災を逃れて自然壕(ガマと呼ばれる洞窟)や墓所などに避難していたが、旧日本軍は陣地として使用するという理由で壕や墓所を強奪し、民間人を追い出した。戦争経験者から多数の事例が証言されている。
(※10)
1965年、歴史学者の家永三郎が国を提訴した裁判。家永は、執筆を務めた高校日本史教科書の検定不合格を不服とし、文部省(当時)による教科書検定は、憲法が保障する学問の自由、検閲の禁止などに反しており違憲であると訴えた。1965年提訴の第1次訴訟、1967年提訴の第2次訴訟、1984年提訴の第3次訴訟があり、第3次訴訟では最終的に1997年の判決により、数カ所の検定が違法であると認められた。
(※11)
九州南端から南西諸島にかけて自衛隊の体制を強化する日本政府の方針。2010年の防衛大綱で方針が示された後、与那国島(2016年)宮古島(2019年)、石垣島(2023年)などに自衛隊駐屯地が開設されている。