尊敬する上司だった。はじめて自分にチャンスをくれた人だった――にのみやさをりさん(54歳)は、そうふり返る。「罠」が仕掛けられているだなんて、思いもよらなかった。当時は24歳で、社会人になって1年目。だから見抜けなかった、というわけではないだろう。罠の存在を知っているのは、罠を仕掛けた側だけなのだから。
ここでいう罠(エントラップメント)とは、性暴力の加害者が被害者に仕掛けるものを指す。本稿では、この罠が日本の“職場”の至るところに潜んでいること、そしてどのようにして性暴力につながっていくのかを解き明かす。
(編集部註:本稿にはエントラップメント型性暴力の経験談が掲載されています。フラッシュバック等にご注意ください)
罠を仕掛ける――「目をつける」
現在は写真家として活躍するにのみやさんだが、子どものころから出版にかかわる仕事をしたいと志していた。しかし大学を卒業したのは、就職氷河期といわれる時代。受けては落ち、受けては落ちをくり返した後、見かねた父親の口利きで、とある出版社に入社した。
そこに、加害者となる男性がいた――仮に、Aとする。
「入社してから知ったのですが、会社が欲しかったのは即戦力となる人材。新卒を採用したところで、仕事を教える余裕がない。私の仕事は雑用だけでした。その雑用すら、誰もが忙しくて教えてもらえないから、自分で見つけてはこなしていました」
職場でにのみやさんは“縁故入社”した新人として知られていた。編集長、副編集長以外は契約社員やアルバイトで運営している会社にとって、社員としての採用自体が異例なことだった。こうした噂は、すぐに広まる。編集の仕事を覚えるチャンスはない、職場の居心地もよくない。でも、ここを辞めてもいくところがない。
「家族と不和だったこともあり、会社の近くでひとり暮らしをしていました。働きつづけなければ、実家に帰るしかなくなる。それだけはイヤだと思い、なんとか3年は粘ろうと決めたんです」
40代のAは副編集長だったが、敏腕ゆえに編集長以上の存在感があり、精力的に仕事をこなしていた。新人のにのみやさんでも、彼がいなければ編集部が回らなくなることはすぐに見て取れた。
入社した年の秋が深まったころ、にのみやさんは編集長から「記事を書いてみる気はあるか?」と話しかけられた。Aも、「にのみやさんは見込みがあるよ、やる気があるなら教えるよ」と。にのみやさんは、一も二もなく「書きたいです」と返した。
それは、身体が震えるような瞬間だったに違いない。副編集長として手腕を振るい、ほかの社員からも頼られているAからの評価は、特別な意味合いがあったはずだ。
「うれしかったですよね、それをしたくて出版社に就職したんですから。やっと道がひらけた、と思いました」
けれど、いまならわかる。このときにはもう、罠が仕掛けられていた。
上下関係を利用して逃げ道をふさぐ「エントラップメント型性暴力」
性暴力が発生するプロセスには「型」がある、といわれる。『性暴力被害の実際』(金剛出版、2020年)では、その型を①奇襲型、②飲酒・薬物使用を伴う型、③性虐待型、そして④エントラップメント型と、4つのカテゴリーに分けた。
①~③は言葉から内容の想像がつくが、④のエントラップメント型は説明を必要とする人が多いだろう。同書によると、被害者が「力関係の上下を使って追い込まれていく」プロセスを経て発生する性暴力のことをいう。
これらの類型は、性被害当事者20名による体験談記載と、同31名への綿密なインタビュー調査から、見えてきたものだ。同書の編著者のひとりである齋藤梓さん(臨床心理士、上智大学総合人間科学部心理学科の准教授)は、こう解説する。
「調査に協力してくださった被害当事者の方に研究結果をお知らせしたところ、『まさに“罠にはめる(エントラップメント)”ようなプロセスですね』とおっしゃいました。私たち研究チームは、なんてぴったりの表現だろうと思い、エントラップメント型と名付けたんです。性暴力のなかでもっとも典型的なプロセスで、ほかの①~③とも重複する型なので、数としてもとても多いと考えられます」
齋藤梓・大竹裕子編著『性暴力被害の実際 被害はどのように起き、どう回復するのか』(金剛出版、2020年)
罠はどこにでも仕掛けることができる。インタビュー調査では、街頭アンケートとして話しかけてきた相手に強い態度で個人情報などを聞き出され、路地に追い込まれて被害に遭った女性や、家族ぐるみでつきあいのある男性に呼び出され、断れない状況に持ち込まれてレイプされた女性の事例が挙げられていた。
職場とて例外ではない。エントラップメントを仕掛ける側は、力関係の上下(地位関係性)を利用する。部下と上司、発注元と受注先のように、日本の職場では上下がはっきりした関係性が多く、しかもそれが固定化しやすいからだ。
にのみやさんは入社したばかりの新人であることに加え、編集の仕事をしたがっていることは職場の全員が知るところだった。そしてAは、彼女が望む仕事を与えられる立場にあった。
罠に追い込み、はめる――「信頼させ、加害する」
「まるで卵からかえったばかりのヒヨコですよ。最初に目に入った人を頼って、この人についていこう!と思ったんです。彼の仕事ぶりを見て尊敬していましたし、この先も彼に認められれば仕事ができるって、彼に人生を託さんばかりの勢いでした」
多忙な日々がはじまった。にのみやさんがそれまでこなしていた雑用は減らない。日中はそれにかかりきりになり、ほかの社員が帰ったあとで、記事執筆に取り掛かる。
Aは遅くまでつきあってくれた。独身ということもあり、帰る時間を気にしなくてもよかったようだ。にのみやさんに任せられる仕事の量は徐々に多くなり、外回りに同行する機会も増えた。食事をして帰ることもしばしばで、互いに自分のことを話すようになるのは自然のなりゆきだった。
「毎日のように終電帰りがつづいていたある日、突然、Aに突然襲われました」
金曜日の夜、にのみやさんの人生が、大きく変わった瞬間だった。
そのときのことを思い出そうとしても、思い出せない。「解離」が起きていたのだ。
性被害のような極度のストレスや恐怖に見舞われたとき、現実から心が切り離される心理的な防衛反応を「解離」という。被害の“最中”だけでなく、“後”にも起きることで知られている。にのみやさんは被害後、20年以上が経った現在も、日常的に解離が起きる。
意識が戻ったとき、にのみやさんは自宅の真ん中で ひとり、膝を抱えて座っていた。土曜の朝になっていた。どうやって帰ってきたのかも、どのくらいの時間そうしていたのかも、わからない。ワンピースやストッキングが破れ、身体のところどころに傷があった。
性被害に遭った、という自覚はなかった。
「たいへんなことが起きてしまった!と、それだけを思っていました。夕方になって近くの派出所に行ったら『ここでは扱えないから、警察署に行って』と言われたんです。派出所と警察署の違いがわからないし、もう一度勇気を振り絞って警察署に行ったとして、またどこか別のところに行くように言われるかもしれない。恐ろしくなって帰りました」
エントラップメント型性暴力の罠は、アリジゴクが作るすり鉢状の巣をイメージするといいのではないか。アリジゴクの巣は、“獲物が滑りやすいギリギリの角度”で設計されているという。そこに傾斜があると知らないまま獲物は足を踏み入れ、少しずつ滑り落ちていく。
にのみやさんの最初の被害は、まだ傾斜に足をとられたに過ぎなかった。
