■「お前は悪くない」と免責してくれた右翼
さて、ここで私が右翼に入り、抜けた経緯にも触れておこう。
入ったのは97年、22歳の頃である。時代は就職氷河期。当時の私はフリーターで、日々「裏切られた」気持ちでいっぱいだった。
それまでの人生、「頑張れば報われる」と言われてつらい受験戦争にも耐えてきたのに、自分たちが社会に出る頃になったら「バブルが崩壊したので頑張っても報われない社会になりました」とばかりに外されたハシゴ。高校卒業と同時に北海道から上京、美大を目指すも二浪して進学を諦め、19歳でフリーターとなっていた当時の私は自分が社会の「最底辺」にいることを毎日のように突きつけられていた。
ここから脱出する術もわからず、漠然と死にたいと思いながらリストカットを繰り返すような日々。大きな転機は、20歳で起きた地下鉄サリン事件だ。高学歴な若者がなぜオウム真理教のような新興宗教に入ったのかが日々テレビなどで議論され、戦後日本の物質主義や拝金主義的な価値観が間違っていたのでは、なんて語られていた。
それを聞いた瞬間、天啓のような衝撃が全身を駆け抜けた。そうか、私は間違った価値観の中で育ち、生きてきたからこんなに生きづらいのだと。
同時に、たかがバブル崩壊によって「頑張れば報われる」という戦後日本の神話さえ一瞬で嘘になることを経験していた私は、生き延びるにはガチで政治や社会のことを考えなければいけないのではと考えた。そうして頭に浮かんだのが、「右翼とか左翼と言われる人たちはなんか社会とかに怒ってるっぽい」ということで、その人たちの話を聞けば何かヒントが得られるかもしれないと右翼、左翼の集会に参加。
結果、最初に行った左翼の集会は専門用語ばかりでチンプンカンプン。その後に行った右翼の集会で「お前らが生きづらいのはアメリカと戦後民主主義のせいだ!」と言われて何かに覚醒。なぜアメリカが悪いのか、戦後民主主義ってなんなのかもまったくわからなかったけれど、生まれて初めて「お前は悪くない」と免責してくれた「大人」が右翼だったのだ。ということで、文字通り右も左もわからないまま入会。2年間その団体で活動した日々は、使い捨てのフリーターの私に大きな「使命感」や「やりがい」を与えてくれたが、「自分は右翼ではないな」と思い、99年、24歳で脱会したというのが経緯だ。
一方、当時の私は右翼団体にいながらトーク居酒屋「ロフトプラスワン」の常連でもあったので、赤軍派などいわゆる「左翼」の人たちとの交流も多くあった(90年代のロフトプラスワンは右翼や左翼がやたらと出ていた)。
そんな中、元赤軍派議長に誘われて北朝鮮に行ったら「よど号」メンバーに「主体(チュチェ)思想」を激推しされたり、新右翼団体・一水会の人に誘われてイラクに行ってライヴをしたり(当時右翼バンドを組んでいた)、そんなイラクで世界各国の反米活動家と出会ったり、イラク行きの前にアラビア語の歌を覚えるためにイラク大使館に通ってイスラム教についていろいろ知ったり、果てはイラク大使館で知らない日本人のおじさんに「これからはモロヘイヤの時代だから」と「君はベジタブルキング」というモロヘイヤPRのCDを渡されたりと、もう右翼も左翼も赤軍も主体思想も反米もイスラムも野菜の王様もごっちゃの「イデオロギーが大渋滞」状態だったのだ。
そのような環境にいたことにより、「我は右翼ではない」と気づいたのだった。

雨宮処凛氏
■共通するのは“謎の使命感”
さて、秦さんがネトウヨになったのは2008年、私が右翼団体に入ったのは1997年。時代も違うし私の時には「ネトウヨ」という言葉さえなかったという違いもあるが、「大人や社会に騙されていた」という被害者意識や「この真実に気づいた自分が立ち上がらなくては」という謎の使命感は共通する。また、秦さんにとっても私にとっても「右」が初政治体験で、秦さんは20歳頃、私は22歳でその世界に触れたという点も近い。
秦さんは当時を振り返り、脱ネトウヨできたひとつのきっかけは「友人」だと語る。
「これはひとつの教訓だと思ってるんですが、僕が抜け出せたのは、周りの友達が付き合い続けてくれたおかげだと思うんです。過去の僕を知ってる人は(脱ネトウヨした)『奇跡的な成功例』って言うんですけど、飲み会に呼んでも政治に関する意味不明でトンチンカンなことばかり言う人って思われてたみたいで、そんな人、ふつうはもう呼ばなくなるじゃないですか。でもずっと付き合ってくれて、執拗に僕をバカにし続けてくれた(笑)おかげで、僕はネトウヨ時代に一生分の「イデオロギー」を使い果たし、もう特定の政党とかイデオロギーとかに染まる意欲を完全に失ってしまいました」
そんな秦さんはネトウヨになった当時、どこから見ても「リア充」だった。私が右翼に入った動機のひとつに貧しさや世への恨みは確実にあったが、秦さんはまったく違う。
「ネトウヨの活動をバリバリしてた大学4回生は、サークルも、組んでいたバンドの活動も楽しかったです。夏休みはサークルやバイトの友人たちとロキノン(ロック・イン・ジャパン・フェスティバル)行ったり海に遊びに行ったり、サークルの合宿で長野でギターをかきならしながら酒を飲み倒したり、道頓堀とかアメ村で朝まで遊んでバイトしてって感じで本当に楽しかった」
これ以上ないほど怒涛のリア充キーワードだが、周りのネトウヨ学生にもリア充は多かったという。
「ただ後で思うのは、2008年夏に母が亡くなったんですね。すごいお母さん子だったので喪失感で毎日泣いてましたし、目標がなくなった感覚はありました」
秦さんはこのことについて、NHK「ハートネットTV」の『対岸の父』(2026年1月19日放送)で、以下のように語っている。
「母が亡くなって失意の中にいて、いわゆるネット上の政治情報というのをひたすら見ていると、母のことを忘れられる。母の個別のことよりも、日本とか世界とか大きなことを考えてる時の方が楽なんですよね。日本はこういう状態だ、危ないとか思ってる時って母がどうかとかっていうちょっとすると思い出して泣いちゃうみたいなことを忘れられる時間だったんです。なので、そこにのめり込みやすいタイミングではあったかな」
つらい現実から逃れられる場所として、身近な世界からかけ離れたネトウヨの世界というものがあったのかもしれない。