濱野 私もそう思います。一緒に働いていれば、「今日は調子が悪いんだな」とか、「この馬はこの作業が苦手なのよね」とか、わかってくると思うんですよね。そういう一頭一頭の、馬なら馬の様子をつぶさに見ながら一緒に暮らすなかで、昔の人たちはときに動物たちのパーソナリティを発見していたんだと思います。昔の日本の田舎暮らしだったら、もっと自然と共生する可能性があったのではないかと想像できます。
田中 それは、学問としても大事な観点だと思います。私は、江戸時代の暮らしだけではなくて、布のことをずっと研究してきたんですね。先ほど言ったオシラサマ信仰というのは、馬の皮に包まれた娘が天まで昇っていってしまって、それからそのあと、木に降りてきて、それがなぜか蚕になる。
濱野 あれは何度考えても、よくわからない話ですよね……。
田中 そう、なぜ蚕なのか……。おそらく、人間は、蚕がつくった繭を煮て糸を引くという作業を何千年もやってきたわけですよね。そのときに、糸を引く人間には、蚕が生きものとして見えているはずなんです。さらに色を染めるときにも、植物や昆虫を使う。自然界から命をもらわないで生きている人間なんていない。オシラサマの話は、そういう生活をしていたことと関係があるんじゃないかな。そういうことを考えると、動物と人間の関係というのは、近代で変わったんじゃないかなと思いますね。それ以前は、神話に残っているように、動物の世界も植物の世界も、大きい生きものも小さい生きものも、みんなつながって見えていたんじゃないかな、という感覚を持っているんです。
濱野 現代を生きる私たちにとって、これからどういうふうに、身近な動物を受け止めていくのかという課題がありますね。種を超えた関係を築こうとしているズーという人たちについて考えることは、人間と自然との関係を改めて問い直すことにもなるんじゃないかなと思います。