そしてそれは現代を生きる私たちにとって重要な倫理観の根拠である、と私は考えています。
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あらかじめ述べておくと、『鬼滅の刃』を熟読していくと、どうやら「鬼」と「悪鬼」が微妙に異なるものとされているらしい、と気づきます。
炭治郎は、妹の禰豆子〈ねずこ:「ね」の字はネ偏〉を傷つけた風柱の不死川実弥〈しなずがわ さねみ〉に対し、「善良な鬼と悪い鬼の区別もつかないなら/柱なんてやめてしまえ!!」(第45話)という怒りをぶつけますが、『鬼滅の刃』の物語の全体を見渡していくと、おそらく「善良な鬼」と「鬼」と「悪鬼」が区別されています。
「善良な鬼」とは、何らかの事情によって人間と鬼の中間地帯にいるような存在であり、禰豆子、珠世〈たまよ〉、愈史郎〈ゆしろう〉、玄弥〈げんや〉たちがそれにあたります(彼女たちの個々の事情については、ここで詳しくは語りません)。
そして多くの「鬼」たちは、悲しく虚しい生き物であるとされるのですが、これに対し、「悪鬼」と呼ばざるを得ないような鬼たちが存在しているのです。
「悪鬼」とは――後ほど少し詳しく見てみますが――、他人に嘘をつくのみならず自分で自分を騙す、という自己欺瞞の権化であり、他人の命を踏みつけにしてもどこまでも無感覚(アパシー)でいる鬼たちのことです。あるいは、人を散々傷つけ、家族の幸福を奪い、殺して喰っていながら、逆に被害者意識を抱え込んでいる、そうした鬼たち。それが「悪鬼」の「悪」です。先ほど述べたような「善悪の相対化」や「人間の原罪」などを超えるような「悪」なのです。
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では、実際に、『鬼滅の刃』に登場する鬼たちを見てみましょう。
たとえば炭治郎が鬼殺隊の最終選別で出会う「手鬼」は、47年前に鱗滝〈うろこだき〉によって捕らえられた鬼であり、鱗滝のことを強く恨んでいます。鱗滝は、自分が育てた弟子の子どもたちの幸運を願って「厄除の面」を贈りますが、この面を目印として、手鬼はこれまでに鱗滝の弟子を14人喰ってきました(鱗滝はそのことに気づいておらず、鱗滝の善意がかえって子どもたちを死なせてしまう、という皮肉な事態は、『鬼滅の刃』の世界の残酷さ、悲しいまでの容赦のなさを物語っていると感じます)。
重要なのは、手鬼が、「47年前」や「14人」という数字を細かく記憶しているにもかかわらず、最も重要なことを忘れてしまっている、という点です。手鬼は全身が無数の手で覆われている、というグロテスクな姿形をしていますが、その姿形こそが手鬼の根源的な欲望を示しています。
人間の子どもだったころの手鬼は、怖がりで、兄ちゃんに手を握っていてほしい、と思っていました。「兄ちゃん怖いよ/夜に独りぼっちだ/俺の手を握ってくれよ/いつものように」。しかし手鬼は、自分で兄ちゃんを「咬み殺した」のに、そのことを完全に忘れてしまっているのです。「……あれ?/兄ちゃんって誰だっけ?」(第8話)。
もっとも大事な人の記憶をなくしてしまう。しかも、自分が愛する大事な人を自分で殺してしまったという事実そのものを忘れてしまう。これは人間が鬼になることの怖さを象徴する事態であるように思われます(すべての鬼が人間だったときの記憶を忘却してしまうわけではなく、鬼ごとにパターンの違いがあるのですが、鬼には記憶喪失に至りやすい傾向があるのは確かなようです)。
また毬鬼の朱紗丸〈すさまる〉は、幼い女の子の姿をしていますが、彼女の基本的な欲求も「小さい子どもみたい」に毬で遊びたい、というシンプルなもので、彼女は鬼舞辻の呪いで肉体がバラバラになっても「ま…り/ま…り…」「遊…ぼ…/あそ…」という欲求を持ち続けます(第19話)。
あるいは鼓鬼の響凱〈きょうがい〉は、人間時代には小説を書き、また鼓を趣味にしていましたが、君の小説は「つまらない」、「君の書き物は全てにおいて塵(ごみ)のようだ」、鼓も人に教えられる腕前でない、云々と散々馬鹿にされていました。そのためか、響凱の中にあるベーシックな欲求は、自分の書いた小説を、あるいは自分の人生を誰からも「踏みつけ」にされたくない、というものでした(第25話)。
だから、響凱は炭治郎に敗北してチリに還りますが、炭治郎が彼の小説の原稿用紙を踏みつけにせず、「君の血鬼術は凄かった!!」と称賛したことに満足の心を覚え、「小生の……書いた物は……/塵などではない/少なくともあの小僧にとっては踏みつけにするような物ではなかったのだ/小生の血鬼術も……鼓も……/……認められた……」(第25話)という安らぎの中で消滅していくことになります。
先ほども述べたように、他者を決して「踏みつけ」にしてはならない、どんな理由や正義の名のもとにであれ他者を「塵」のように扱ってはならない、というのは『鬼滅の刃』の倫理観の基礎部分であり、極めて重要なものです。
そして、下弦の伍、蜘蛛鬼の累。累は生まれつき体が弱く、自分の足で走ったことがなく、歩くのすら苦しかったと言います。しかし無惨と出会い、鬼としての強い体を手にしました。累の両親は、そのことを喜びませんでした。我が子が人を喰う存在になってしまったわけですから。
累はもともと、「本物」の親子の「絆」に強く憧れていました。川で溺れた我が子を助けるために死んだ親がいた、という昔聞いた「素晴らしい話」に感動した、と累は言います。子どものための自己犠牲。それこそ本物の親の愛であり、真実の家族の絆である、と。ところが、鬼になって人を喰った累を、両親は殺そうとします。累は両親を逆に殺します。そして「偽物だったのだろう/きっと俺たちの絆は/本物じゃなかった」と絶望します(第43話)。
ところが累は、自らの手で両親を殺してしまってから、唐突に次のことを理解します。両親は、累が人を殺した罪を背負って、一緒に死のうとしてくれていたのだ、と。つまり、累は「本物の絆」を自分の手で切ってしまった。そして自分の行為に精神的に耐えられず、記憶をすべて封印し、自分より弱い鬼たちを支配し、家族ごっこをしていた。
ここでもやはり、もっとも大事な人を喪ってしまい、しかも自分が愛する大事な誰かを自分の手で殺してしまったことすら忘れてしまう、そこに鬼という生き物の根本的な悲しさがあり、虚しさがあるのです。しかも炭治郎が述べたように、それは決して他人事ではなく、ちょっとした不幸や悲運があれば、私たちの誰もがそうなっていたかもしれないのです。だからこそそれは悲しく、虚しいのです。
手鬼のグロテスクな姿形が兄に「手を握ってほしい」という人間時代の欲望を象徴していたように、累の血鬼術である「蜘蛛の糸」は、絶対に切れない本物の「絆」を願ったものである、望んでももう決して手に入らないものの象徴である、と言えます。
『鬼滅の刃』
吾峠 呼世晴(ごとうげ こよはる)作。『週刊少年ジャンプ』(集英社)に2016年11号から2020年24号まで連載されたマンガ。2019年からテレビアニメ化。2020年10月には劇場アニメ『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が公開された。
下弦
人喰い鬼の首領・鬼舞辻無惨によって選ばれた鬼たちの最精鋭の「十二鬼月」の階級。「上弦」と「下弦」に分かれ、それぞれに、壱、弐、参、肆(し)、伍、陸(ろく)という順番になっている。
上弦
人喰い鬼の首領・鬼舞辻無惨によって選ばれた鬼たちの最精鋭の「十二鬼月」の階級。「上弦」と「下弦」に分かれ、それぞれに、壱、弐、参、肆(し)、伍、陸(ろく)という順番になっている。