作者の吾峠呼世晴(ごとうげ こよはる)先生が好きな作品の一つにあげている『ジョジョの奇妙な冒険』の言葉でいえば、「吐き気をもよおす『邪悪」」(『ジョジョ』第5部でブチャラティがボスに対して言った言葉)であり、「自分が『悪」だと気づいていない…もっともドス黒い『悪』」(『ジョジョ』第6部でウェザー・リポートがプッチ神父に対して言った言葉)であると言えます。
戦いの最終局面で、自分の前に立った炭治郎たちに対して、無惨はこう言っていました。「身内が殺されたから何だと言うのか/自分は幸運だったと思い元の生活を続ければ済むこと」「私に殺されることは大災に遭ったのと同じだと思え」「死んだ人間が生き返ることはないのだ/いつまでもそんなことに拘っていないで/日銭を稼いで静かに暮らせば良いだろう」「殆どの人間がそうしている/何故お前たちはそうしない?/理由はひとつ/鬼狩りは異常者の集まりだからだ」(第181話)。
自分は自然災害のようなものなのだから、誰を殺そうが何の責任もなく、罪もない。無惨のこうした言い分は、まさに半天狗が示したような被害者意識と責任転嫁の究極系であり、まさに半天狗の上司であり悪鬼のボスである、という感じがするのですが……これに対し、炭治郎は言います。「お前は存在してはいけない生き物だ」。そうです、無残は「存在してはいけない」ほどの「悪鬼」なのです。
『鬼滅の刃』の世界では、さらに、「悪」とは「汚い」生き方のことでもあります。たんに悲しく虚しいだけでは、決して「汚い」とは言われません。珠世は無惨を「生き汚い男」と言いました。かつて半天狗はお奉行から「薄汚い命」と罵倒されました。命そのもの、生き方そのものが薄汚い、ということ。それが根源的な「悪」なのです。
悲しく虚しい「鬼」たちには、『鬼滅の刃』の世界では、人間だったころの記憶を取り戻して――極楽や天国へは行けずとも――家族と一緒に地獄へ行くことができる、というかすかな救済の可能性が許されているようです(手鬼、累、妓夫太郎、堕姫、猗窩座、など)。
地獄に行くのにそれが救済であるとは、おかしな言い方ですけれども、愛する家族とともに地獄堕ちができるということ、そこにぎりぎりの「救済のようなもの」があるとは言えるでしょう。これに対して、「悪鬼」たちは、もはや地獄へすら行けずに、ただこの世界から滅して、消え去るだけです(その点ではやはり玉壺もまた「悪鬼」だったのでしょうか……)。
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今の私たちにとって重要なのは、この世界には許されない「悪」が実在する、という感覚をまっとうに取り戻すことではないでしょうか。その感覚を子どもたち、若者たちへも伝えていく、継承していくことが重要なのではないか。
たとえば現在の政治状況は、「ポストトゥルース(真実)」等と呼ばれます。今日もメディアやネットでは、無数のデマやフェイクニュースや陰謀論が飛び交っています。あまりにもデマやフェイクの物量が多すぎるために、もはや真偽が判別不能であるかのように感じられてしまいます。
そしてこうしたポストトゥルース(真偽不明)な状況とは、そのまま、よいことと悪いこと、正義と悪の区別がつかないというポストエシック(善悪不明)な状態でもあります。今現在の私たちは、悪に苦しめられるというよりも、むしろ、真偽や善悪などの価値観が泥沼になって、なし崩しになり、ぐずぐずになっていくこと、そのことに苦しんでいるのではないか。そうしたなし崩しの泥沼の状態の中で、ちゃんと「悪」を名指さねばならない。価値観の無限の相対化と多様化に歯止めをかけねばならない――。
つまり、どんなに残酷で過酷で暴力的な世界の中でも、それでも「悪」を許さない、という倫理観を取り戻すことが大事なのではないか。『鬼滅の刃』を読みながら、私はそんなことを考えます。
たとえば国内の政治についても、私たちは正しさやまっとうさというよりも、政治的な敵か味方か、という敵対性のゲームによってしか政治をイメージすることができなくなっています(それは「ポピュリズム」や「ラディカルデモクラシー」と呼ばれます)。
しかし、状況次第で入れ替わってしまう敵/味方の論理(善悪の相対主義)にとどまることなく、私たちは、はっきりとした意志(決意)をもって、「悪」の批判を行っていくべきではないか。そのときも私たちは、心ならずも「鬼」に転落してしまった他者を決して踏みつけにしてはなりません。彼らもまた私たちと同じ「人間」だったのだから。私たちもまた、いつ鬼になるかわからないのだから。それでも、この世の(「鬼」ではなく)「悪鬼」たちの自己欺瞞的な行為としての「悪」を許してもいけないのです。
ただしそれはわかりやすい「悪」であるとは限りません。というのも、自己欺瞞としての悪とは、自分に対してすらも嘘をつくことであり、たとえば加害者たちによく見られる被害者意識(DVや犯罪の加害者が「自分こそが被害者である」と考えがちであることは、よく知られています)や、あるいは政治学で言われる自発的隷属(強い権威者の命令に自分の意志で積極的に従う、という倒錯した自由のこと)のように、ねじれた自己隠蔽の形式をとりやすいからです。そして人間/鬼/悪鬼の境界線も、決して自明とは言えないからです。
「生き恥」という言葉も、『鬼滅の刃』の重要なキーワードの一つですが、思えば私たち(大人たち)の多くもまた、恥の多い人生を送っているのではないでしょうか。とはいえ、「生き恥」にはまだ救いがあります。恥の感覚は、ぎりぎりのところで、私たちをまっとうさの感覚に目覚めさせてくれますから。しかし「生き汚い」生とは、恥すら感じない生、まさしく恥知らずな生であり、そこには救いがありません。
無惨が「悪鬼」の極限として、「存在してはいけない生き物」と呼ばれるのも、そのためでしょう。無惨はその名の通り、まさに恥を知らない「無惨」な命を生きるしかないのです。私たちは恥知らずになるくらいなら、どんなに惨めでも、醜くても、お天道様のもとで恥をさらして生き延びた方がマシなのではないか。
この世界の残酷さにどんなに踏みつけにされても、どうか、君たちは誰かを踏みつけにしないでほしい。どんなに生き恥をさらしても、生き汚くはならないでほしい。無惨な悪(恥知らず、生き汚さ)には染まらないでほしい――『鬼滅の刃』を読みながら、そんなことを考えます。
『鬼滅の刃』
吾峠 呼世晴(ごとうげ こよはる)作。『週刊少年ジャンプ』(集英社)に2016年11号から2020年24号まで連載されたマンガ。2019年からテレビアニメ化。2020年10月には劇場アニメ『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が公開された。
下弦
人喰い鬼の首領・鬼舞辻無惨によって選ばれた鬼たちの最精鋭の「十二鬼月」の階級。「上弦」と「下弦」に分かれ、それぞれに、壱、弐、参、肆(し)、伍、陸(ろく)という順番になっている。
上弦
人喰い鬼の首領・鬼舞辻無惨によって選ばれた鬼たちの最精鋭の「十二鬼月」の階級。「上弦」と「下弦」に分かれ、それぞれに、壱、弐、参、肆(し)、伍、陸(ろく)という順番になっている。