香山 こんなことを精神科医が言ってはいけないかもしれませんが、「人はなぜ死なずにいられるんだろう」と思うことがあります。事故や災害もいつ襲ってくるか分からないし、ちょっとした不注意で命を落とすこともある。そして森岡さんがおっしゃるように、「人生なんて無意味だ、じゃあ死んでも同じだ」と、ふとした瞬間に死と近づいてしまうこともある。生と死というのは結局、地続きのものであって、人間ってすごく「死にやすい」ものじゃないかと思うんですよ。
そう考えたときに、ふと「子どものいる人がうらやましい」と感じることがあります。私には生きている価値がない、と思ったときに、もし自分に子どもがいれば、「でもとりあえず子孫は残したんだから、私の人生は無意味ではない」とか、「いや、幼い子どもを残しては死ねない」と、死なずにいるための一つの理由付けになるんじゃないかと。
子どものいる人には「そんなに安易なものではない」と怒られるかもしれないし、子ども自身がどう思うかは別にしてですが……。私のように、子どもという「理由付け」さえない人はどうしたらいいんだろうと思うことがあるんです。
森岡 それとつながるのかは分かりませんが……私は、数年前に父親を亡くしたのですが、その父親が「まだ、自分の中にいる」と思うときがあります。つらいことがあったときなどに、すぐそばで守ってくれているように感じることがあって。考えてみると最近は、父親だけではなくて、すでに亡くなった大切な人たちが、単なるイメージではなくてもっと手触りのあるような形で、自分の中にいてくれるという感覚を、よく持つようになったんですよ。
香山 なるほど。それは精神分析学的な超自我というより、もっと自分を補完してくれたり包んでくれたりする存在ですね。罰するものとしての父親ではなく、やさしく守ってくれるものとしての父親。母親にそういう感覚を抱く男性は多いでしょうが、息子が父親に、というのは興味深いです。
森岡 ということは、私より若い誰かが、私が亡くなった後に「森岡が守ってくれている」「森岡が自分の中にいる」という感覚を持ってくれる可能性があるわけでしょう。そう考えると、人と人とのかけがえのないつながりというのは、生物として血を分けた云々ということとはあまり関係ないのかな、という気がしています。
誰の中にも、それぞれいろんな人の存在が溶け込んでいて、それがまた別の人の中に入り込んでいって……。私は無宗教ですが、生きていくうえではそういうスピリチュアルな次元での支え合いを考えていく必要があるのではないか、子どもがいても「私は子どものために生きる」とがちがちに固まるのではなくて、他の命ともつながっていくという感覚を持ってもいいのではないかと思っています。
「自殺は防がなくてはならない」には根拠はない
香山 あともう一つ、森岡さんにお聞きしてみたかったことがあります。2020年は著名人の自殺も相次いだのですが、一人の患者さんが、ある俳優さんの死について、「あれで私は、死ぬことを許された気がした」と言っていたんですね。どういうことですか、と尋ねたら、「これまで自分は、つらい人生だけどそれでも死ぬことはいけないんだと思って一生懸命やってきた。でも、あんなに成功した俳優さんでも死んでいいんだから、私も死んだって別に大丈夫だと思えるようになった」。これについてどうお感じになりますか。
森岡 前半で「産むこと、生まれることは素晴らしい」という前提が聖域化しているという話をしましたが、それと同様に「自殺は防がなくてはならない」というのも、私たちの社会における非常に強固な前提、聖域になっていますよね。でも、実はその前提には、何の論理的な根拠もありません。著名人の自殺によって、その事実に目を開かされたということなのではないでしょうか。絶対だと思っていた大前提が崩れることで、ふと自由を感じたということなのかな、と思います。
香山 そうかもしれません。ただ精神科医としては、「自由になれてよかったですね」とは言えない。それは哲学的な理由というより、職業的な倫理観からです。とはいえ、「私は死ぬことを許されたんだ」というその人の言葉には奇妙な説得力があり、私はしばらく沈黙してから、ようやく「でも、死なないでくださいね」と言うのがやっとでした。
森岡 私は「自殺を防がなくてはならない」という前提には、深掘りしていくと実は根拠がない、その底にはぽっかりと穴が空いているんだ、という気づきは、決して隠蔽すべきではないと思います。そして、自殺をせずに終わった人生も、自殺をして終わった人生も、価値としては平等で、同じように尊いものだと考えています。
ただ一方で、直接「死にたい」と言ってきた人に対しては、それとは違う対応を取りたいという思いもある。香山さんがコラムで書かれていた、自殺したいという患者さんに対して、何とか引き留めようと「来週、もう一度私に会いに来てください」と言うくだりなどは非常に感銘を受けたし、私が学生に「死にたい」と言われたら同じように答えるかもしれない、と思いました。
つまり、「自殺で終わる生も尊い」と思いながらも、「死にたい」という学生さんには「来週も私の話を聞きにここに来てほしい」と言うだろう自分もいる。その狭間に、すごく大事なものがあるような気がしています。
香山 臨床における精神科医には、「なぜ生きなくてはならないんですか」「誰にも迷惑かけないなら死んでもいいんじゃないですか」と言われたときの答えはありません。「死んだら周りの人が悲しむから」と言ったりはしますし、もちろんそれは嘘ではありません。家族が自殺を遂げ、本当に苦しんでいる遺族をたくさん見てきました。でも、「私には家族もいないし、悲しむ人もいないんです」と言われたときに、「それでも絶対に自ら選んで死んじゃいけない」と言えるだけの説得力がある答えは持ち合わせてないんですよね。私はとりあえず、「来週、あなたに会えなかったら私がさびしいから、私に会いに来るためだけに一週間、生きてもらえませんか」などと言うのですが。
森岡 そうだと思います。哲学的に考えても、「自殺してはならない」ということに根拠はない。ただ、それでも言えることもあって、それが「あなたが死んだら私が嫌だから、私と関係性をつくってください。私と一緒に生きてください」と言うことだと思うんです。「死にたい」という人に対して、周りの誰かが本気でそう言えたとしたら、「なぜ死んではならないのか」に対する一つの答えにはなるのではないでしょうか。