猗窩座は煉獄と戦ったときと同じように、「俺が嫌いなのは弱者のみ/俺が唾を吐きかけるのは弱者に対してだけ/そう 弱者には虫唾が走る反吐が出る/淘汰されるのは自然の摂理に他ならない」と主張しています。
これに対し、炭治郎は「お前の言ってることは全部間違ってる」と反論します。「お前が今そこに居ることがその証明だよ/生まれた時は誰もが弱い赤子だ/誰かに助けてもらわなきゃ生きられない/お前もそうだよ猗窩座/記憶にはないのかもしれないけど赤ん坊の時お前は/誰かに守られ助けられ今生きているんだ」。
そして炭治郎はさらにこう続けます――「強い者は弱い者を助け守る/そして弱い者は強くなり また自分より弱い者を助け守る/これが自然の摂理だ」。これは作者の吾峠呼世晴氏が『鬼滅の刃』の連載の中で試行錯誤しておそらく見出したであろう思想を示すような、とても重要な言葉です。
大切なのは、炭治郎が猗窩座との二回目の対決の中で、煉獄の生き様と価値観を受け継ぎつつ、それをさらに先の次元へと昇華させたことです。煉獄の「強者の責務」を、炭治郎は新たに「自然の摂理」へと更新させているのです。
猗窩座は弱者が淘汰されるのは自然の摂理だ、と主張します。強者生存、弱肉強食。これはダーウィンの思想を通俗化した上で人間の世界に当てはめようとする、いわゆる社会ダーウィニズムと呼ばれる考え方です。これに対し、炭治郎はむしろ、全く逆に、強い者が弱い者を助けて守り続けること、それこそが「自然の摂理」である、と主張します。
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興味深いのは、炭治郎が、ある種の「ケア論的な正義」によって、自然の摂理を意味付けていることです。たとえば進化生物学などでも、生命進化の過程は、決して一面的な弱肉強食・強者生存ではなく、環境変化にたまたま適応しうる能力を持っているかどうかが重要であり、しかも利己性と利他性が絡まり合いながら、生物は共に進化していくのだ、ということが明らかになっています。
純粋に利己的な生命はありえない。そもそも、すべての人間は、自分が生まれたばかりの赤ん坊だったときに――つまり究極の弱者だったときに――誰か(もちろん生みの親とは限りません)によって助けられ、ケアされ、生かされてきたのです。誰かから無償の贈与を与えられてきた、ということです。
親に感謝すべきだ、という話ではありません。たとえ生みの親、育ての親がひどい人間だったとしても、他の誰か(それは隣人やコミュニティ、社会などかもしれません)の援助や支援なしに、生き延びることはできなかった。
すると、もしも記憶にないとしても、赤ん坊のときに誰かから受けた無償の贈与(無条件に生かされたということ)を、未来の別の他者に向けて、自分以外の弱者に向けて、返済していくということには、何らかの倫理的な根拠がある、ということになります。炭治郎はこうした無限の循環を「自然の摂理」と呼びます。どんなに残酷で理不尽な運命に翻弄されていたとしても、私たちは自然の摂理に根差して倫理的=利他的に生きられるのではないか。家族を突然、残酷に殺されたいわば犯罪被害者のトラウマを抱えた炭治郎の言葉だと思えば、ここには重みがあります。
そして炭治郎のこうした倫理観は、煉獄のような強い者の責務や使命感とも微妙に異なるようです。炭治郎は、あくまでもまだ弱い者として、自分の弱さゆえに他者に守られた者として、猗窩座に対してそのことを主張しているのです。炭治郎は、完璧な人間ではありません。あくまでも弱さを抱きとめたまま、今は以前よりも少しは強くなれた人として、自然の摂理について語っているのです。
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炭治郎は「長男」というアイデンティティを強調しますが、それは決して家父長制的な強権の持ち主としての長男ではなく、あくまでもケアラー(ケアする者)としての長男性を指しています。実際に炭治郎は、鬼と化した妹を手編みの籠や箱の中に入れてずっと背負っていくのですが、これは、赤子を背負った親の姿や、介護者の姿などを自然に想起させます。そして炭治郎は、妹のみならず、我妻善逸〈あがつま ぜんいつ〉や伊之助などの仲間のこともきょうだいのように気遣い続けるのです。
もちろん、ケアの問題を考えるときは、男女のジェンダー不公正を前提にしなければなりません。たとえばケイト・マンは、『ひれふせ、女たち――ミソジニーの論理』(小川芳範訳、慶應義塾大学出版会、2019年)で、ミソジニー(女性憎悪、女性嫌悪)とは、必ずしも女性をモノ扱いすることではなく、女性は男性に対し何かを与える者(giver)でなければならない、という思い込みとして表れる、と論じています。女性はつねに男性に対し道徳的=ケア的に援助・気遣いするべきである、と。女性は男性を気遣い、ケアし、尊敬し、称賛し、支え続けねばならない……。
では、「イクメン」という言葉に象徴されるように、男性たちも家事・育児・介護などのケアにコミットすれば、ケアをめぐる構造的な不公正は解消されるのでしょうか。ことはそう簡単ではありません。
『戦う姫、働く少女』等の著作で知られる河野真太郎は、炭治郎の男性性のあり方は、1970年代以降のメンズリブ(男性解放運動)の流れを受けた「助力者としての男性」の系譜に位置づけられるものである、と論じています。
それは旧来の家父長制的な「男らしさ」とは別物ですが、新たな「男性性」の権威を回復するものでもあるかもしれない。「助力者としての男性」は現実においては意識の高いミドルクラス的でリベラルな男性たちが獲得しやすいものであり、いわば「勝ち組男性のフェミニズム」を前提としているかもしれない、と(「大ヒット『鬼滅の刃』の隠れた凄まじさ…「男らしさの描き方」の新しさに注目せよ 「長男だから我慢できた」の意味」)。
この指摘は重要です。しかし、炭治郎のケアラーとしてのあり方は、もう少しラディカルな次元に突き抜けているように思えます。
ケア論的な正義のラディカリズムとは、もちろん、近代的な家父長制を維持するための性役割分業を主張するものではありません。「母親には育児や介護の責任がある」とか「女性にはケア道徳が必要だ」という話ではありません。男性が「助力者=ケアラー」というポジションをうまく勝ち取って、他の男性に対してマウンティングするものでもありません。
煉獄杏寿郎
鬼殺隊の「柱」(最高位の9人の剣士をこう呼ぶ)の一人。
上弦
人喰い鬼の首領・鬼舞辻無惨によって選ばれた鬼たちの最精鋭の「十二鬼月」の階級。「上弦」と「下弦」に分かれ、それぞれに、壱、弐、参、肆(し)、伍、陸(ろく)という順番になっている。
お館様
鬼殺隊を取りまとめる当主、産屋敷耀哉(うぶやしき かがや)のこと。
柱
鬼殺隊最高位の9人の剣士をこう呼ぶ。
風柱
鬼殺隊の最高位「柱」のなかで、「風の呼吸」を使うため、こう呼ぶ。