たとえば哲学者のハンス・ヨナスは、「赤ん坊が息をしているだけで、否応なく『世話をせよ』という一つの『べし』が周囲に向けられる」と述べています(『責任という原理――科学技術文明のための倫理学の試み』、加藤尚武監訳、東信堂、2000年)。最もかき消され易く、沈黙に近く、弱い声。それこそが倫理的な「命令」である、と。むしろ、老若男女を問わず、あるいは健常者と障害者の違いを問わず、普遍的にケア=贈与なしでは生きられない存在として生まれてきた自分たちを見つめ直さねばならない、ということです。
猗窩座だって、かつては赤ん坊だったのです。猗窩座は他人の弱さが許せません。しかしそれは、そもそも、自分の弱さが許せないからなのです。前回、『鬼滅の刃』において、悪とは自分に嘘をつくことであり、自己欺瞞である、と述べました。猗窩座の強烈な弱者嫌悪は、自己欺瞞的な自己嫌悪そのものです。
しかしここで私たちは思い出すべきでしょう。人間だった頃の猗窩座こそが、かつて、他の誰よりも利他的なケアラーとして生きようとしていた、ということを。少年時代の猗窩座は、病気の父親を懸命に介護し、また師範の娘である恋雪〈こゆき〉のことも熱心にケアしました。猗窩座は「長男」としての炭治郎以上にケアラー的な倫理の持ち主だったのです。
猗窩座は、病気の人間の存在はべつに迷惑ではないし、病気の人間が謝る必要すらもない、と考えています。病気の人間は何か悪いことをしたわけではないし、そもそも一番苦しんでいるのは本人なのだから。病で苦しむ人間が周りに謝らざるをえないような状況を強いられてしまうこと、猗窩座はむしろそこに憤っているのです(第154話)。『鬼滅の刃』の鬼たちの中で、炭治郎の「優しさ」に匹敵する資質を持っていたのは、猗窩座ではなかったでしょうか。
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ここまで、『鬼滅の刃』の根幹にあるだろう弱さと利他性の思想を論じてきました。重要なのは、それが『鬼滅の刃』の組織論(集団性のあり方)にも関わっている、という点です。あの「自然の摂理」を組織論的な分業体制に組み込んでいたのが鬼殺隊だった、と私は思います。
先ほども参照した河野論文では、次のようにも指摘されています。「鬼殺隊はアナーキーな組織ではなくソフトな権力=大人たる『お館様』によって統率されているのだ。そしてそのお館様の最大の能力は、「新たな男性性」の重要な性質であるコミュ力、コミュニケーション能力なのである。(略)コミュ力はファシズム的リーダーの重要な資質でもあり、鬼殺隊はファシズム的組織にも不気味に近づく」(同)。
しかし、これはどうでしょうか。確かにお館様(産屋敷耀哉 うぶやしき かがや)は「カリスマ性があり大衆を動かす力を持つ者」とされます(第47話)。そして鬼殺隊の剣士たちを――年上の剣士たちを含めて――「子」と呼びます。つまり代理的な「父」の役割を担っています。
そもそもお館様は、独裁的あるいは強権的なポジションに立ってはいません。柱合会議(厳密には会議が始まる前の、炭治郎たちの処遇を決める話し合い)の場面でも、柱たちは、決してお館様の言葉や判断を絶対視せずに、それぞれに反論したり拒絶したりしています。それは対話や合議制というよりも、てんでんばらばらに自分の考えを主張するようなカオスな印象すら与えます。
お館様は、最大の敵・鬼舞辻無惨〈きぶつじ むざん:「つじ」の字は1点しんにょう〉と対面したとき、「私を殺した所で鬼殺隊は痛くも痒くもない/私自身はそれ程重要じゃないんだ」と言います(第137話)。実際に、お館様は自分の命を囮(おとり)にして、無惨を罠に陥れています。お館様は唯一無二のカリスマではなく、彼自身もまた組織全体の一部分にすぎないのです。有機体のような全体主義(部分は全体のためにある)とも少し違います。重要なのはお館様が「私自身はそれ程重要でないと言ったが…/私の死が無意味なわけではない」とも述べていることです。鬼殺隊の剣士たち、特に柱の剣士たちは、お館様を個人として慕っており、彼が死ねば個々人の士気が上がるのは間違いないからです。
かつて不死川実弥〈しなずがわ さねみ〉が風柱になったばかりの頃、実弥はお館様に「自分の手を汚さず/命の危機もなく/一段高い所から涼しい顔で指図だけするような奴」、という不満をぶつけたことがあります。これに対し耀哉は、「ごめんね」と率直に謝ります。自分もまた君たちのように強い剣士になりたかったが、病弱で剣が持てなかった。でも自分もまた捨て駒にすぎないのであり、「私は偉くも何ともない」「皆が善意でそれその如く扱ってくれているだけなんだ/嫌だったら同じようにしなくていいんだよ」(第168話)。実際にお館様・産屋敷耀哉が死んだあとは、わずか八歳の息子の輝利哉〈きりや〉が新しく鬼殺隊のリーダーになります。
鬼殺隊という組織にとって重要なのは、全体主義的な滅私奉公ではなく、利他性の無限連鎖のようなものである、ということでしょう。部分が全体のために奉仕するのではありません(つまり厳密には「捨て駒」は一人もいません)。「至高の領域」としての「無我」(無私)とは、組織のために自分の命を「捨て駒」として擲(なげう)つことではなく、自発的な利他的な行動の連鎖によって、お互いに生かし合うということなのです。
鬼殺隊という組織の面白いところは、個々人の行動や、あるいは分業化された各集団が、独立性をもってバラバラに動きながらも、互いを活かし合うように綜合的に機能している、というところでしょう(「『鬼滅の刃』評論家座談会【前篇】『現代におけるヒーローとヒールをちゃんと描いた』」参照)。たとえば「隠」(かくし)と呼ばれる事後処理部隊や、刀鍛冶の人々のことが、作中では丁寧に、重要なものとして描かれています。
煉獄杏寿郎
鬼殺隊の「柱」(最高位の9人の剣士をこう呼ぶ)の一人。
上弦
人喰い鬼の首領・鬼舞辻無惨によって選ばれた鬼たちの最精鋭の「十二鬼月」の階級。「上弦」と「下弦」に分かれ、それぞれに、壱、弐、参、肆(し)、伍、陸(ろく)という順番になっている。
お館様
鬼殺隊を取りまとめる当主、産屋敷耀哉(うぶやしき かがや)のこと。
柱
鬼殺隊最高位の9人の剣士をこう呼ぶ。
風柱
鬼殺隊の最高位「柱」のなかで、「風の呼吸」を使うため、こう呼ぶ。