では、さまざまなバリエーションがあるボルシチの基本形が何かというと、具だくさんのビーツのスープというところだと思います。その語源から、ボルシチはもともとハナウドを入れたスープだったと考えられますが、今やボルシチにビーツは欠かせません。アカザ科の植物で「カエンサイ(火焔菜)」という和名を持つビーツは地中海東海岸から西アジア地域が原産で、10〜11世紀のキエフ・ルーシ(キエフ大公国)の時代に知られるようになり、14世紀頃から一般に普及し始めましたから、それに伴って、ボルシチにもビーツを入れるようになったのでしょう。一部の地域ではビーツを使わないボルシチも食べられていますが、ボルシチをボルシチたらしめているのはビーツのほの甘さと鮮やかな赤紫色だと思います。
ビーツ以外の主な具材として挙げられるのは、キャベツ、じゃがいも、トマト、人参、玉ねぎ、カブ、いんげん豆、トウモロコシなどさまざまな野菜、それから牛、豚、鶏などの家禽類、マトンなどの肉です。多くは肉を使い、牛肉と豚肉など複数の肉を一緒に入れることも一般的ですが、魚で出汁を取るボルシチや、キリスト教正教会の潔斎日の習慣から野菜だけの「精進ボルシチ」もあります。また、夏に食べる冷たいボルシチもとてもおいしいです。
そして、ボルシチになくてはならないのは食卓で各自が好みの量を入れるディルなどのハーブと、スメタナという乳脂肪分の高いサワークリームです。このふたつが加わることで、風味はもちろん、ビーツの赤紫色、ハーブの緑、スメタナの白と、見た目も非常にきれいで、スメタナが溶けてボルシチの色が次第にピンクになっていく色彩の妙にも食欲をそそられます。
良いボルシチは、スプーンを入れても倒れないぐらい、たくさんの具が入っているものだと言われており、一品でお腹いっぱいになるボリュームがあります。鍋いっぱいの素材を煮込むことで生まれる豊かで複雑なうま味をビーツがゆったりとつなげ、塩だけのシンプルな味付けでも、さっぱりとしつつ深みのある味わいで、毎日食べても飽きません。家庭では、大鍋にたっぷり作り、数日かけて食べるということも普通に行われています。
――日本ではビーツが入っていない、トマトスープのようなボルシチもよく見られます。
日本でボルシチが食べられるようになったきっかけのひとつに、ワシリー・エロシェンコというウクライナ出身の盲目の詩人が、日本の盲学校で学ぼうと1914年に来日し、当時の文化サロン的な場所であった新宿・中村屋に身を寄せていたということがあります。後にボルシチは中村屋の看板メニューのひとつとなりますが、レシピはエロシェンコが教えたのではないかというのが私の仮説です。その頃の日本ではビーツの入手が難しかったのでトマトを使ったのではないでしょうか。
今、ウクライナから避難されてきた方たちが日本に身を寄せていらっしゃいますが、いきなり和食と言っても、慣れないとなかなか馴染めないでしょうから、ビーツを使ったボルシチを作ることができればいいのではないかと思います。ただ、日本でビーツを買おうとすると生のものは値段も高く、缶詰では味は落ちてしまいます。ビーツは各種ミネラルや葉酸、食物繊維などが含まれ、健康や美容にいいと言われていますから、日本でももっとビーツを栽培するようになってほしいですね。ちなみに、スメタナも日本では手に入りにくいですが、私のロシア料理の先生である料理研究家の荻野恭子さんによると、ヨーグルトと乳脂肪分の高い生クリームを同量ずつ混ぜ合わせることで、かなり近い味になるということです。
―― 一見似ていて、歴史や文化も重なり合うロシアとウクライナの何が違うのか、日本人にはなかなかピンとこないところもあるように思います。たとえば、料理や食文化で両国の違いはどういったところに見られるのでしょうか。
日本のように海で囲まれていたり、あるいは高い山でさえぎられていたりするところと違い、平地のウクライナはさまざまな民族が行き交いやすい地理的条件を備えているため、異なる文化の活発な交流や同化が起こり、互いに影響を受けたり与えたりし合ってきました。食文化も、まさにそのひとつと言え、またロシアの食文化もやはり多様な民族のものが渾然一体となっています。ロシアやその周辺国の食文化研究はまだこれからというところがありますから、今後、いろいろなことが明らかになっていくかもしれませんが、現時点では、これはウクライナ料理、これはロシア料理と明確に区切るのは難しいように思います。
ウクライナの地は、14世紀以降リトアニアやポーランドの支配を受けました。この頃から次第にロシア・ウクライナ・ベラルーシという3つの民族・言語の分化が加速していきます。ウクライナは、17世紀にはロシアの庇護を受け、さまざまな形でロシアの中に組み込まれていくようになり、ロシア革命後には旧ソ連の構成共和国になります。こうした歴史の中で、ウクライナの食文化の多くがロシアと共有されたり、ロシアの食文化がウクライナに入ってきたりするということになりました。たとえば、ウクライナでは「サーロ」という豚の脂身の塩漬けをよく食べると言われますが、それが伝わって、ロシア人も「ウォッカにはサーロ」と好んで食べていたりします。その一方で、ロシアのサラダの代表格である「オリヴィエ」というじゃがいものサラダは、ウクライナでも「ロシア風サラダ」として好まれているメニューだと聞いています。