日本のオリンピック中継やニュース等が、このような選手たちの活躍や動向を通じて近代オリンピックが(少なくとも名目上は)体現しようとしてきた〈スポーツを通じた平和への希求〉を報道というかたちで表現できていれば、おそらく斎藤氏もオリンピック観戦を「ボイコット」することにはならなかったのではないか。
アスリートアクティビズムについて
オリンピックとスポーツウォッシングに関連することがらでは、アスリートアクティビズムについても少し触れておきたい。アスリートが世の中の差別や抑圧、不平等などに対して意見や意思を積極的に表明するアスリートアクティビズムは、スポーツウォッシングに対して、アスリートの側からカウンターとしての行動を起こせる有効な手段だからだ。
だが、発言するアスリートたちの行動や意思表示は、オリンピック憲章規則50(選手が大会期間中に政治的・宗教的・人種的プロパガンダを行うことを禁止する項目)やオリンピズムの根本原則第4項(すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなくスポーツをする機会を与えられなければならない、と宣言する項目)との整合性が必ず議論になる。
パリオリンピックでのアスリートアクティビズムは、男子ボクシング57キロ級の1回戦、パレスチナ代表のワシム・アブサルvsスウェーデン代表のネビル・イブラヒムが象徴的な事例だ。判定で敗戦したアブサルは試合後にリング上で「パレスチナに自由を!」と叫んでタンクトップにプリントされたパレスチナ旗を指さし、対戦相手のイブラヒムもアブサルの右腕を高く掲げて支持を表明した。また、女子ブレイキンではアフガニスタン出身の難民選手団選手マニージャ・タラシュが競技中に「アフガンの女性に自由を」と記したケープを広げたが、これがオリンピック憲章で禁止する政治的行動にあたるとして失格処分を受けた。
この一件から1968年のメキシコオリンピック男子200メートル決勝の〈ブラックパワー・サリュート〉を連想した人は少なくないだろう。このとき優勝したトミー・スミスと3位のジョン・カーロスというふたりのアフリカ系アメリカ人選手は、表彰式で黒い手袋をつけた拳を突き上げて黒人差別への抗議を示し、2位に入ったオーストラリアのピーター・ノーマンもふたりに連帯の意思を示すバッジをつけて表彰台に上がった。スミスとカーロスは政治的行動を取ったとして即日にナショナルチームから追放処分を受け、ノーマンも選手生命を絶たれた(後年に、3名とも各国オリンピック委員会からの謝罪と名誉回復がなされている)。
今後、スポーツと社会のよりよい関係を築くには?
日本の新聞記事でも、タラシュの失格に際してこの一件に言及する報道はいくつか見られたが、放送メディアの方はタラシュの例に限らず、発言し行動するアスリート全般に対して、総じて及び腰であった印象がある。このような「君子危うきに近寄らず」とでも言いたげな態度は、おそらく日本の放送界やスポーツ界関係者、スポンサー企業に全般して共通する傾向だ。
アスリートアクティビズムはもちろん、スポーツウォッシングという現代的な課題と向き合い、スポーツと社会のよりよい関係性を構築していくためには、イベントの主催者や競技団体はもちろん、それを伝えるメディアや、あるいは我々のように競技を観戦して愉しむファンひとりひとりも、直接の当事者としてそれぞれの立ち位置から闊達な議論を進めることが、今後ますます重要になってくるだろう。
国際オリンピック休戦センターのウェブサイトには、ネルソン・マンデラの以下の言葉が引用されている。
「スポーツには世界を変える力がある。人々を鼓舞する力がある。ほかの何ものにもほとんどなしえない方法で、人々を団結させる力がある。スポーツは、若者に理解のできる言葉で話しかける。スポーツは、かつて絶望しか存在しなかった場所に希望をつくり出すことができる。スポーツは人種の壁を打破することにおいて、政府よりも強い力を発揮する」(日本語訳/西村)
日本人のメダル獲得礼賛報道に暴走する一方だったメディア関係者には、このマンデラの言葉を噛みしめて、今後に向けた抑制的な検証と自制的な問題提起に活かしていただくことを切に願う。