『少女倶楽部』の付録『私の修養日記』(昭和14年6月)(左) 『実業之日本 臨時増刊 処世大観』(明治38年4月)(右)
絢子 がんばって「教養」を身に着けた結果、それを身に着けていない田舎にいる両親や大衆との距離が開いてしまう。そうなると、さきほどの「転向論」の話と同じで孤独になり、何かのきっかけで「お父さん」「天皇」「日本」みたいな大きなものにすがるようになっていくのかなと思いました。
真幸 おっしゃる通りですね。やっぱりヨーロッパでは、「教養」がネイティブなものという感じですよね。身に着けると言うより、すでに確固とした地盤がある。フランスのピエール・ブルデューが『ディスタンクシオン』(1979年)で分析したように「文化」や「教養」が階級的なものに限定されていたりする。それはそれで不自由なので、どうかとも思いますが、生まれたときから「教養人」で、彼らはまったく大衆的なものと分離していたりする。日本の場合「教養」はゼロから身に着けるものですからね。
*「日本の大衆にとって〝知〟とは何だったのか?―タイパ・コスパ時代の「教養」と「修養」 後編に続く
筒井清忠
つつい・きよただ 1948年大分県生まれ。社会学者。著書に『日本型「教養」の運命―歴史社会学的考察』などがある。

竹内洋
たけうち・よう 1942年東京生まれ。社会学者。著書に『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』などがある。

ピエール・ブルデュー
フランスの社会学者(1930年~2002年)。著書に『ディスタンクシオン――社会的判断力批判』などがある。
