恐慌芝居、終幕までの長い道のり
世界同時不況は、最悪期を脱した。これが、2008年9月15日の「リーマン・ショック」から1年が経過する中でのもっぱらの論調だ。だが、本当にそうか。筆者には、現状が恐慌芝居の中のちょっとした幕間狂言にしか見えない。この恐慌芝居は、本編4幕、それに序幕と終幕が加わって、計6幕仕立ての大ドラマだ。それぞれの幕にタイトルを付ければ、序幕「金融大暴走」、第一幕「金融大激震」、第二幕「生産大縮減」、第三幕「雇用大調整」、第四幕「通貨大波乱」、そして終幕が「新たな夜明けか、永遠の暗闇か」となる。
幕間狂言は、第二幕と第三幕との間の息抜き的位置付けにある。大嵐がひとまず去って、人々はその被害を見極め、後片付けや生活の立て直しなどを進めている。
だが、本格的な復興と新たな均衡の発見は、まだまだこれからだ。その発見の旅の過程で、第三幕と第四幕が展開することになる。
「金融大暴走」の中で膨らみ過ぎ、ゆがみ過ぎた地球経済が均衡を取り戻すための調整は、まさにこれからが本番だ。その過程で、どんな魔物が行く先々に潜んでいるのか。それらと闘うために、我々はどのような姿勢をもって臨むべきであるのか。魔物退治にはどんな心構えが必要で、どんな落とし穴を警戒しておく必要があるのか。
雇用喪失がもたらす三つの「病弊」
幕間狂言を経て、第三幕はどう展開するか。先述の通り、雇用調整がさらに本格化することになるだろう。第一幕から第二幕へと進む中では、派遣切り、あるいは外国人切りというかたちでの雇用調整が進んだ。言葉は悪いが、いわば切りやすいところから着手する段階だった。第三幕では、これが雇用の中核部分、つまり正規雇用の世界にも及んでいく情勢だ。その動きは、既に各国で執拗(しつよう)な失業率の上昇傾向というかたちで顕在化している。
雇用調整が大々的に進むということは、もとより、それ自体として大問題だ。人々に職がなく、生活の糧がない。そのような状態が広がることは、経済活動が次第にまひしていくことを意味している。雇用の沈降は経済にとって「死に至る病」だ。
だが、それだけではない。雇用喪失が深刻化すると、それに伴って様々な病弊が国々を襲う。それらがどこまでまん延するか。それによって、第三幕から第四幕「通貨大波乱」への展開が決まる。
問題の病弊は、大別すれば三つある。それぞれを名づければ、その一が「自分さえ良ければ病」、その二が「統制経済化」。そして、その三が「元の木阿弥化」である。
世界を覆う保護主義への懸念
「自分さえ良ければ病」は実に怖い病気だ。新型インフルエンザよりも、はるかにたちが悪い。毒性が強く、感染力も強力である。発症形態は、感染者によって様々だ。金融機関がこの病気にかかると、貸し渋りや貸しはがし、そして現金の囲い込みという症状を発する。メーカーの場合であれば、派遣切りや下請け切りが典型的な症状だ。個別の金融機関や企業についてみれば、これらの症状を発したからといって、彼らを責めるのは当たらない。厳しい状況の中で、金融機関の貸し出し態度が慎重になるのは当然だ。企業が人員整理をせざるを得ないことも、理解できるところだ。だが、すべての金融機関が貸し渋り行動をとれば、金融市場からカネが消えてなくなる。すべてのメーカーが大量解雇に走れば、巷に失業者が溢れる。いずれにしても、経済活動は行き詰まってしまう。
これが、「自分さえ良ければ病」の誠に厄介なところだ。個別企業にとっては合理的な選択が、全体としてみれば、経済を痛めつけるという極めて不合理な結果をもたらしてしまう。一人にとって良いことが、全員にとっては悪いことになってしまうのである。部分最適を足し上げても、全体最適に到達しない。この現象を世に「合成の誤謬(ごびゅう)」と言う。
合成の誤謬という悪質な核心をもつ「自分さえ良ければ病」に、国々が感染するとどうなるか。出て来る症状は保護主義である。「わが国さえ良ければ」症候群は、今、まさに世界を覆いつつある。いまや、地球経済はちょっとした愛国尽くしブームの様相を呈している。
愛国その一が「愛国消費」である。国産品の愛用を促すやり方だ。これをいち早く形にしたのが、アメリカの「バイ・アメリカン(Buy American)」政策である。これを打ち出すことが、オバマ大統領の経済政策上の初仕事になってしまった。残念なことである。同様の政策はヨーロッパでも広がっている。
愛国消費は、国が「自分さえ良ければ病」にかかると、まず、いの一番に出て来る症状だ。それに加えて、今回はさらに二つの愛国が目立っている。
一つが「愛国金融」だ。公的資本の投入を受けた金融機関に対して、融資に当たっては自国の企業や人々を優先するよう、行政指導が行われる傾向が各国で強まっている。
もう一つが、「愛国雇用」である。外国人を雇う余裕があるなら、自国の労働者を採用せよということだ。例えば、イギリスでは、「イギリスの職場はイギリス人のためにある」という言い方を政治家たちがするようになっている。そのような差別をしないのが、イギリスだったはずである。嘆かわしいことだ。
愛国消費はモノに関する保護主義だ。愛国金融はカネ、そして愛国雇用はヒトに関する保護主義である。かくして、グローバル時代の三大主役であるはずの「ヒト・モノ・カネ」の全般にわたって保護主義の手かせ・足かせが行く手を阻む状況になっている。
(後編へ続く)