「自由の国」の巨大企業国有化
第二の病弊、「統制経済化」は「自分さえ良ければ病」と表裏一体の関係にある。愛国消費、すなわち誰からモノを買うか。愛国金融、すなわち誰にカネを貸すか。愛国雇用、すなわち誰を雇うか。これらは、いずれも民間企業にとって、核心的な経営テーマだ。それについて、国が口を出して指図する。ここには、忍び寄る統制経済の影を感じざるを得ない。
それだけではない。2009年6月1日、アメリカの三大自動車メーカーの一つ、GM(ゼネラル・モーターズ)社が事実上国有化された。会社更生手続きの一環として、アメリカ政府がGM株の60%を取得したのである。このことを発表するに当たって、バラク・オバマ大統領自身が「政府はGMの不本意な株主になった」と言った。自由を愛するアメリカのイメージに、巨大企業の国有化は誠に不似合いだ。その意味で、確かにこの選択はオバマ氏にとって著しく不本意だったに違いない。
かくして、経済に対する国の関与が次第に深まっていく。それが高じれば、統制経済はもはや忍び寄る影ではなくて、実態をもつことになってしまう。
そこまで行くことを心配するのは杞憂であるかもしれない。そうであって欲しいものだが、状況は決して予断を許さない。
「通貨大波乱」到来の要因
第三の病弊、「元の木阿弥化」とは何か。これは、言うまでもなく、元の状態に戻ってしまうということだ。世に「山高ければ谷深し」と言う。それは解るが、然らば、「谷深ければ、山高し」ということでいいのか。リーマン・ショック以前のあの高い山という元の木阿弥状態に再び立ち戻る。今、世界各国の政府が経済対策として展開している財政の大盤振る舞いと通貨大膨脹作戦は、要するに、元の木阿弥を再現しようとしている。そう思えてならない。それでいいのか。あの山の山頂が高すぎて危険すぎる場所だったからこそ、我々はそこから転落した。それなのに、また再びそこに戻れば、また転落することは必定だ。こんなことを繰り返していたのでは、我々の体がもたない。何のために我々は恐慌という体験をしているのか。二度と再びあの危険な山に登ってはいけないというメッセージがそこにあったはずである。
このような調子で病弊が広まると、第四幕で通貨大波乱に見舞われる恐れが極めて濃厚だ。そう考える理由が二つある。第一に、「わが国さえ良ければ」と考える国々が、為替切り下げ競争に走る恐れがある。第二に、国家財政の破たん問題がある。
為替切り下げ競争とは、要するに、通貨の安売り合戦だ。自国通貨を誰よりも安い水準にもっていく。そうすれば、自国の商品を超安値で世界に売りまくることができる。多くの国々がこの熱に浮かされれば、通貨的混迷が広がることは必至だ。
通貨大波乱の第二の要因が、国々の財政事情だ。元の木阿弥を目指す公共事業の大盤振る舞いで、各国の借金はかさむ一方だ。誰が最初に借金を返せなくなるか。アメリカか、日本か、ヨーロッパか。その思惑が逃避的な通貨売り圧力と投機的な通貨買い圧力を呼び起こす。そうなれば、主要通貨の為替相場が激しく揺れる恐れは大きい。
人間の営みとしての経済を取り戻せ
かくして現状を見ると、終幕で永遠の暗闇を回避することは、なかなか、難しそうである。それを認識しておくことが必要だと思う。その上で、新たな夜明けに向かって扉を押し開けるためにはどうするか。そのために必要な合言葉が二つあると思う。合言葉その一が「一人は皆のため、皆は一人のため」である。今こそ、地球経済がこの理念をあげて共有する必要がある。なぜなら、一人が一人のためだけを考えている限りにおいて、我々は確実に「自分さえ良ければ病」に感染してしまう。不可避的に合成の誤謬の罠(わな)に落ちて、それこそ、皆で奈落の底に落ちていくほかはない。
第二の合言葉として提示したいのが、「自分さえ良ければ」の正反対、すなわち、「あなたさえ良ければ」である。人々がこの行動原理に基づいて動くようになれば、世の中は随分変わるだろうと思う。例えば、アメリカがこの言葉を実践してくれれば「バイ・アメリカン」とは言わずに、「バイ・ノン・アメリカン」と言うようになるはずだ。かくして、国々がお互いに相手に対して市場を開放し合う。決して内需の囲い込みを行わない。そうなれば、愛国の壁は消滅する。
経済活動は人間の営みだ。経済活動を行う生き物は世に人間しかいない。したがって、経済活動の在り方は人間がどのような信条や心意気をもって行動するかによって決まる。「自分さえ良ければ」から「あなたさえ良ければ」への飛翔が進むことを祈るばかりだ。