アベノミクスの「成長戦略」の目玉だった原発輸出。安倍晋三首相の肝いりで推し進められてきたが、日本の三大原子力メーカーが手掛けた輸出案件はいずれも頓挫した。まず東芝が2017年、米国における原発建設で巨額の負債を抱え込み、海外原発事業から撤退。そして今年初め、日立製作所が英国での原子力発電プロジェクトを“凍結”し、三菱重工もトルコで進めていた原発建設計画に見切りをつけた。これらだけではない。他の案件も撤回されるか、あるいは暗礁に乗り上げるなどしている。
政府は「海外市場を活用する」ことで、「原子力の技術、人材、産業基盤の維持・強化」を図るとしてきた。国内では原発の新増設が見込めそうもないからである。しかし原発輸出のために会社の屋台骨がぐらつくような事態に陥っては元も子もない。メーカーは「もう限界」(日立製作所の中西宏明会長)と白旗を掲げた。それでも安倍政権は、「日本の原子力技術への期待の声はある」(菅義偉官房長官)と、あくまで原子力産業の海外進出にこだわり続けている。
筆者は2014年に上梓した『日本はなぜ原発を輸出するのか』(平凡社新書)の中で、日本政府が「原子力産業の国際展開」を目指す理由と原発輸出のリスクについて論じた。当時、日本は複数の海外案件を獲得し、さらなる受注へと意気込んでいた。それから5年。今や原発輸出計画は“総崩れ”といってよい。日本の原発輸出政策は、なぜ失敗したのだろうか。
日本の原発輸出政策と米国との関係
はじめに、これまでの日本の原発輸出政策を、それと密接にかかわる米国との関係を中心に振り返っておこう。
原発輸出政策は、安倍政権になって打ち出されたわけではない。国の原子力政策の中に原発輸出が明示されたのは、1982年が最初である。しかし、いくつかの事情のために、なかなか進展しなかった。最大の壁は、日米原子力協定による規制である。
日本は1955年、米国と原子力協力に関する協定を結び、それを通じて米国製の原子炉と技術を導入するとともに、国内に原子力産業を形成していった。協定は軍事利用の禁止に加え、米国起源の原子力技術を使って製造した機器などの第三国移転(再輸出)は、米国側の同意が必要と定めている。つまり、日本のメーカーが製造した原子炉であっても、米国がライセンスを持つ技術が1カ所でも使用されていれば、米国の頭越しに他国へ輸出することはできない。言い換えれば、自主技術100パーセントの原子炉でない限り、日本単独では輸出できないのである。
当時、日本が輸出先と目していた国々は、中国をはじめとする途上国だった。しかし米国は核拡散や政情不安などへの懸念から、そうした国々を輸出先から外していた。とはいえ、日本の原子力メーカーは国内電力会社から原発建設をコンスタントに受注していたので、外需に頼らなくともビジネスは足りていた。ところが1990年代に入ると国内での新規着工が頭打ちとなり、原子力発電の技術・人材を維持するには海外市場に活路を求めるしかなくなっていったのである。
米国の姿勢に変化が現れるのは、今世紀に入ってからだ。それというのも、ロシアがインドや中東といった米国の安全保障にかかわる地域へ原発を輸出しようとしていたこと、そして中国が大規模な原発建設計画を打ち出し、海外メーカーにも参入を促したことによる。この状況は米国にしてみれば、自国の規制が及ばない原発が増えていくだけでなく、原子力分野における世界のリーダーシップが脅かされることを意味した。
ジョージ・W・ブッシュは2001年に大統領に就任すると、それまで原子力協力を控えていた国々への輸出に乗り出した。ところが米国の原子力産業は衰退し、原子炉製造ラインは機能しなくなっていた。スリーマイル島原発事故(1979年)や電力自由化の影響で、国内の新規建設が30年ほど途絶えていたためである。そこでブッシュ政権は日本(及びフランス)の協力を得て米国内の原発建設を再活性化させるとともに、日本と協調して原発輸出を進めることで、自国の原子力産業の復興を図った。
こうして内需低迷にあえいでいた日本の原子力産業の眼前に、米国市場と海外市場という二つの輸出の道が開かれたのである。
原発輸出の現実
米国の変化を背景に、2005年に閣議決定された「原子力政策大綱」は「原子力産業の国際展開」に向けた指針と施策を示した。それに基づき、日本は官民一体となって原発輸出の実現へと怒涛の如く走り出した。
先に述べたように、現状では日本単独での原発輸出は難しい。そこで東芝は2006年、米・ウエスチングハウス(WH)の商業発電用原子力部門を買収し、その翌年、日立は米・ゼネラルエレクトリック(GE)と、三菱重工は仏・原子力大手のアレバ(現・フランス電力)と、それぞれ原発専門会社を設立した。
ただし、米・仏との協力は自主技術100パーセントの原子炉を開発するまでの“当面の”措置であり、日本の原発輸出政策の主眼は「日の丸原発」の「国際展開」にあった。この点についてはあとでまた触れるとして、ここでは原発輸出の現実をメーカーごとに見ていく。そうすることで原発輸出政策が失敗したのはなぜか、その要因が浮かび上がってくるだろう。
・「国際展開」で資産を失った東芝
「15年間で64基の受注を目指す」――WHを傘下に収めた東芝は、2015年にこう豪語した。
実は、WHは1999年に英国企業へ12億ドルで売却されていた。それを東芝は54億ドル(当時のレートで約6400億円)と4.5倍もの高値で買い取ったのである。沸騰水型原子炉(BWR)メーカーの東芝は、加圧水型原子炉(PWR)メーカーのWHを子会社化することで、米国市場への進出を手始めに、原子力ビジネスにおける「世界のリーディングカンパニー」となる目論見だった。ところがWHは、米国で受注した原発4基の建設費が膨れ上がり2017年、経営破綻。親会社である東芝が負ったWH関連の損失は1兆4000億円に上る。
これら4基のほかに、東芝は2008年に米・テキサス州の原発建設事業「サウス・テキサス・プロジェクト」(STP)にも出資していた。しかし、シェールガスや再生可能エネルギーが価格競争力を強める中、原子力発電事業は採算性が危ぶまれていき、2011年の福島第一原発事故がそれに追い打ちをかけた。米国側のパートナーは事業から手を引くも、東芝は資金を投入し続けた。しかし、新しいパートナーを得ることができず2018年、事業から撤退。STPは東芝がプラント設計から建設までを一括して請け負い、同社製の改良型沸騰水型原子炉(ABWR)2基を供給するはずだった。ABWRは東芝、日立、東京電力、中部電力が中心となり、GEも参加して開発された原子炉だ。
東芝はまた、英国でも原発建設事業を進めていたが、事業を維持できず2018年、現地子会社・ニュージェネレーション(NuGen)を解散した。NuGen社はスペイン企業などが福島原発事故後に売りに出したもので、東芝は2014年に買収。WH製の原発3基を建設する計画だった。
つまずいたのは原発プロジェクトだけではない。2010年、東芝は米国のウラン濃縮会社・ユーゼック(USEC)と出資契約を結んでいた。燃料の引き取り権を得ることで、原発輸出とセットとなる核燃料供給能力を確立しようとしたのである。しかし福島原発事故の影響でウラン燃料価格が下落し、USEC社は2014年、経営破綻した。